いずれの宗教においても、信心を語らないものはありません。なかでも浄土真宗は信心中心の宗教で、他の宗教でいう信心とは、その信心の性格が著しく異なっています。一般には、お不動産を信心してお百度を踏んだというように、信心はお百度を踏むための前提条件にすぎません。ご利益を得るための基礎資格のようなものです。
ところが、浄土真宗でいう信心はそれが究極なのです。阿弥陀如来の本願を信じることによっていっさいが完結するのです。それ以外に私に求められるものも、また私が求めていくものもありません。信じるということのなかに無限の過去から流転してきた生死のきずなを断ち切って、永遠の法に浴して生きる大安心を感じるのです。
【やさしい真宗講座 -み教えに生きる- 霊山勝海 本願寺出版P79より】
浄土真宗の教えの肝は「阿弥陀如来の本願を信じることによっていっさいが完結する」というところです。この言葉に集約されます。「阿弥陀如来の本願を信じる」とありますが、分かり易く言いますと、「(わたしが、」南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる」ということです。
つまり、わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付くか否か、がとても大事になってきます。至ってシンプルなのですが、「私の計らい、思い込みや自信」が南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされることを難しくしている現状があるのではないでしょうか。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏