浄土真宗の信心と他の宗教のそれを区別して、浄土真宗では信心であって信仰ではないという人がいます。しかし、信仰という語と区別すれば、信心が明らかになるというものでもありません。現に、神信心とか「鰯(いわし)の頭も信心から」というような使い方がされますし、自力の信心という語もあります。信心という語自体も、決して浄土真宗の独占物ではないのです。
信心の中身の違いは、「何を信じたのか」という信心の対象により決定するのです。怨霊を信じれば、やがて破綻の憂き目を見ます。奸臣(かんしん)を信じた君主は、やがて身を滅ぼします。釈尊によって発見された、涅槃への法則である阿弥陀如来の本願を信じることにより、私どもは生死のきずなを断ち、新しい価値観の世界に生まれ変わるのです。
【やさしい真宗講座 -み教えに生きる- 霊山勝海 本願寺出版P81より】
信じるといいまても、何を信じるかで全く意味合いが違ってきます。釈尊によって発見された涅槃の法則である「阿弥陀仏の本願を信じる」こと以上の幸せはありません。そこには大安心の世界があります。「阿弥陀仏の本願を信じる」とありますが、もっと分かり易くいいますと、『わたしが、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる』ということです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏