手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

不断光

  如来を不断光仏と申しあげることであるが、それは如来の光明が、わたしどもをご照護下さるのには、その光明は常恒であって、断絶なさることがないのであります。光明遍照十方世界の光明は、過去世より今日今時にいたるまで照らしづめであって、絶え間がないのであります。今日まで、わたしの方で知ると知らざるとにかかわらず、如来の大慈悲は常に恒に不断に照らしておって下さるのであります。
 その不断光の御力によって、ようやく信心が発(おこ)るようになったのであります。そして一たび信眼がひらけて見れば、いよいよ摂取の心光に摂護せられて、過去のみならず現在も、不断に照らされておることを知り、なお未来永遠にわたって、不断に照護せられることを信知するのであります。
【正信偈講話 上 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ)P115、P116より】



 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきは、わたしの方で(そのはたらきを)知っていようがいまいがそのなことには全く関係なく、この今もはたらいています。南無阿弥陀仏のはたらきに気付いている人、まだそうでない人を問わず一様に。いずれの立場の人においても、絶えず、阿弥陀さまのお育てに授かっています。
 妙好人おそのさんは、(下記のように)うまくいったものです。
「あの夕方になりますと、女中がお汁を拵(こしら)えて、それへ団子を入れて下から焚きたてますね。すると団子に煮える気はないけれども、火の力でひとりでに煮え上がりますね。煮え上がったと思う頃に、すぐ、すくい上げて下さりますよ」
南無阿弥陀仏のはたらきを「団子汁の譬え」で分かり易く表現しています。遅かれ早かれ南無阿弥陀仏の身にならせて頂くのは間違いありません。それは、このいま、に越したことはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏