手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

わたしは、生かされて生きている

 お念仏がわかりにくいのならば、呼吸ということで考えたらどうでしょう。「吐いてみろ、吸ってみろ、おおよくできたな」などということではないですね。オギャーと生まれたときに呼吸をしているのです。これは自然のはたらきによって呼吸をしているのです。このいのちは誰が与えてくれたのか、母です、父ですといっても、息をすること自体は、両親が教えたわけではありません。息をするようになって生まれたのです。
 普段は、呼吸というものを意識しません。それでいて、この呼吸が止まればいのちは終わるというように、呼吸は大事なものなのです。生きているというのも、はからっているのではない、生かされている。生かされているという言葉は大事な言葉です。それでまた、みな平等なのです。お念仏というのは、まことの自然の行いである。はからって念仏するというのではなくて、催促によってお念仏している。この催促とは、自然のはたらきなのです。呼吸は肉体の自然現象であり、本願他力の自然のはたらきとは違うのではないかと思う人もおられるでしょう。しかし、これを分けて考える限りは、わかりません。
 親鸞聖人は『末燈鈔』の自然法爾章(じねんほうにしょう)など、八十歳を過ぎてから特に自然ということをくり返し、お話しになったようです。『歎異抄』第一条には、「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」とありました。こころ起こすときではなくて、心の起こるときなのです。私の計らいよりも先に念仏しようという心が起こってくる。心が起こってきたときには、もうお念仏している。そういうお念仏を、私たちはもういただいているのです。普段は、当たり前のことのように思っている呼吸ですけれども、それこそが大事なことなのです。そこに大きな自然のはたらきがある。そいうことを教えてくれるのが、お念仏の教えなのです。
【(改訂新版)歎異抄講義 上 三明智彰(みはるとしあき)P161、P162より】



 ここでもいわれていますように、私は無意識に呼吸をしています。私が、どう思おうが、思うまいが呼吸をしています。呼吸が止まれば死にます。つまり、私の思いとは全く関係なく呼吸をさせられている、ともいえます。
 では、わたしが、このいま生きていることについて考えてみるといかがでしょうか。私の思いや希望に関係なく、この時代に、この土地に、この容姿で、生かされています。このことを鑑みますと、「私は生かされて生きている」ということは疑いのない事実だと認めざるを得ません。「南無阿弥陀仏のはたらき」は、いま・ここで・わたしに、はたらいています。(私が)そのことに気付かされたとき、報恩感謝のお念仏がわたしの口からこぼれます。
 いま・ここで・わたしは、呼吸をしていますが、果たして意識して呼吸をしているひとはいるでしょうか? 当たり前すぎて、そんなことは意識しないでしょう。
森林浴で「空気がうまいなぁ〜」と深呼吸をするときや、風邪をひいて「息苦しいな〜」という場合に意識する程度ではないでしょうか。
「南無阿弥陀仏のはたらき」の真只中で生かされている私が、なにかの機会に、ふと、「南無阿弥陀仏」とお念仏がこぼれ出たらしめたものです(笑)。
 言葉を換えていいますと、
当たり前に生きている生活が、実は当たり前ではなかったことに気付かされた、ということです。そこからの人生は大安心です。死んでよし、生きてよし、です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏