手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分の殻を破る (浄土真宗の視点から)

 「自分とは何者か」を考える際、私たちは他人の評価を気にせずにはおられません。もちろん、それは言葉だけに限らず、他人の目や顔の表情や態度などにも現れますが、私たちはそれに基づき、自分自身について自問自答をすることになります。その時の私の行為や感情を自ら確認するのです。自問自答することによって、自らのあり方や資質を客観的に顧みることができると考えるからでしょう。(略)
 その際には、当然のことながら、題材になっているその「自分」を客観視し判断している「もう一人の自分」がいることになります。あの時あのように思ったことは、正しかったどうかを判断する「もう一人の自分」です。これは何も過去に限ったことではありません。今、この時においても、「自分」とそれを客観視しようとする「もう一人の自分」は常に存在するといってよいでしょう。(略)
 「もう一人の自分」は常に「自分」に対して、評価を出し続け、自らそれに苦しんでいくということも、よくある話といえるでしょう。つまり、知らず知らずのうちに、「もう一人の自分」は絶対的に正しいものになってしまっているのです。
 「自分の殻を破れ」
などといわれることがあります。けれども、「自分」を判断する「もう一人の自分」が絶対的に正しいものとして存在している限りは、「自分の殻を破る」ことにはならないのではないでしょうか。ものの見方や感じ方にしても「自分」と「もう一人の自分」との関係に終始しているのが私たちの世界であって、大抵の場合、この関係の中から抜け出せないでいるのが私のあり方といえるでしょう。
【白き蓮華のひらく刻 森田 真円 P212~P216より】



このあと、
「私とはどんな者か」について、親鸞聖人は以下のように示されています。
是非しらず邪正もわからぬこのみなり (正像末和讃 自然法爾章)
善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり (歎異鈔 後序)
簡単にいいますと、わたしは、善悪の見分けが全くつかない者ということです。


では、
一体なにをもってして、わたしの善悪を判断すればよいか、ということですが。
そのゆえは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど…… (歎異鈔)と述べられています。
わたしの善悪を判断する基準は、仏さま(阿弥陀さま)である、ということです。


もちろん、
「もう一人の自分」視点で、客観的に自分自身を見つめ直すことは大事ですが、
とりわけ、生死問題においては、「阿弥陀さま」視点を意識していくことが大事になってきます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏