手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏は理屈をつけすぎず

弘誓のちからをかぶらずは
 いづれのときにか娑婆をいでん
 仏恩ふかくおもひつつ
 つねに弥陀を念ずべし
      (高僧和讃 八六)

弥陀如来が救うと誓ってくださったということを知らなければ、いったいどうして輪廻から自由になれるだろうか。輪廻から救ってくださるという阿弥陀如来のご恩を思って、常にお念仏を申そう。


 阿弥陀如来の願いがあることを知らずに、人生を過ぎる方がたくさんいらっしゃいます。浄土真宗の伝統の中におりますと、当たり前のように阿弥陀如来の願いがあると思っていますが、多くの人はわれわれに向けられた願いがあることを知らずに生涯を終えていくのです。そういう人に向けられた切実な思いが、この和讃の「いづれのときにか娑婆をいでん」には込められています。
 お念仏を申す身となるご縁には、どんなことがあるでしょうか。
 お仏壇、ご本尊、お寺という環境が整っていれば、比較的お念仏は申しやすいでしょう。もし環境が整っていなくても、いろいろなご縁があります。あまり理屈をつけずに、お念仏を申すほうがよろしいと思います。お念仏は、やはり自然に称えられるのが良いのです。
 自然にというと簡単なようですが、自分から称えると決めてお念仏を申し始める方は、多くはありません。おじいちゃん、おばあちゃんや両親、親戚、知人など周囲のご縁で、お念仏を称えられる身に仕上げられていくことがほとんどで、いろいろなご縁が絡まってくると思いますが、それがないとお念仏を申せる者にはなかなかなれません。
 夜眠れないと悩んでいた人が、お念仏したら眠れると勧められてお念仏を申すようになったと聞いたことがあります。教義的にいえば、睡眠薬代わりにお念仏を使うなんてとんでもないと批判することもできましょうが、しかし、眠れないという苦がきっかけでお念仏を申す身になることは、ご縁としてはありがたいと思います。
 そこから人生のいろいろな苦が、お念仏によって解きほぐされていくようになれば、もっとありがたいご縁になります。
 その方は眠れないことで、お念仏を申す時間を与えられたと思うのです。灯りをつけて本を読むほどではない。真っ暗闇の中でできることは、お念仏をいただくことだけだったとしても、お念仏があるから称えられるということにやがて気がつくのです。
 たとえば葬儀の場で、遺族は悲しみや悔しさという持って行き場のない苦しみの中にいます。そこで何ができるかというと何もできない。「お念仏をもうしましょう」と誰かが声を掛ければ、手を合わせてお念仏を申すという形が与えられ、自然に大事な人の死と向き合う方向に導かれていくことでしょう。自分でお念仏を申し、また「南無阿弥陀仏」の声が周りから聞こえてくることで、悲しみの中にあったとしても、私たちが阿弥陀如来のもとへ繋がっていると感じることができます。
 どんなおぼつかない状況でも、お念仏を申すことができる。ある縁が次の縁に繋がって、私もお念仏によって育てられていく。あらかじめお念仏のいわれをすべてわかったうえでお念仏を申すのとは違って、お念仏のご縁によって自分が育てられていると感じることは、とても大事なことです。
【いまを生かされて  大谷光真 文藝春秋 P53〜P56より】



南無阿弥陀仏のおはたらきが具現化されたのが、南無阿弥陀仏のお名号ですね。そのはたらきは、目に見えません。しかし、南無阿弥陀仏と口から溢れる音声となり、南無阿弥陀仏という言葉となって、体感できます。
何気なしに南無阿弥陀仏と唱えたり、魔除けのために南無阿弥陀仏と唱えたり、冷静になるために南無阿弥陀仏と唱えたりと、いろいろな場面や目的で南無阿弥陀仏と唱えることは多々あります。それらのお念仏も、やがて報恩感謝の南無阿弥陀仏になるのです。
阿弥陀さまの想定の範疇です。いやいや、まことにありがたいことですな。