手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏と共にある人生

 私たちの周りには楽しいことがたくさんあります。何時終わるかわからないいのちならば、できるだけ楽しく暮らしたいということもよく理解できます。
 でも、どれだけ楽しんでも、いや楽しければ楽しいほど、その楽しい人生の行き先が「死んだらおしまい」といういのちの終わりであるならば、言いようもなく虚しくなります。
 では、なぜ虚しくなるのでしょうか。
 それは「死んだらおしまい」ということが、死ぬということには何の意味も何の意義もないと言っているからです。そう、どれだけ楽しさ探しをしてみても、いのちの終わりに意味を持たない人生は虚しいといわざるを得ないのです。
 「わたしは死ぬる身を生きているのではない、み仏に生まれる『いのち』を今いきているの。だから何があっても泣かないでね」。この言葉は、二十五歳で亡くなった藤原千鶴子さんが、末期ガンの病床にありながら、お父さんに語られた言葉です。この言葉の中に、お念仏と共に生ききられた、死んだらおしまいの人生ではない、千鶴子さんのいのちの輝きを感じるのです。
 死の解決なくしては、生の解決はありません。南無阿弥陀仏というお念仏は、このいのちを死んだらおしまいのいのちではなく、仏に生まれるいのちにするという、阿弥陀様の願いと誓いです。この阿弥陀様の願いに包まれる中で、わたしのいのちの終わりに、仏に生まれるという、最高の意義が与えられるのです。
 そしてそれは、人生の中の出来事には、何一つとして無駄なこと無意味なことはないと気づかされるということです。
 お念仏と共にある人生、それこそが虚しく過ぎることのない人生なのです。
【みほとけとともに第3巻 本願寺出版社 漢見覚恵(滋賀県・純正寺住職 本願寺派布教使)P29,P30より】



南無阿弥陀仏と共にある人生、その根底には安堵感・安心感があります。すでに、阿弥陀さまの願いに包まれている中においては、そのおはたらきに気付かせて頂くか否かです。
なまんだぶ なまんだぶ



          気づき(イメージ)