手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

学仏大悲心

歎異抄』12条に、
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もっとも不便のことなり  

                     (『註釈版聖典』839頁)
とありますが、ここに〈如来の大悲心を領解すること〉が仏教を学ぶことであると示されています。この私のためのご本願であり、そのご本願に目覚めることであると示されています。“本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや”こそが浄土真宗の学びであると述べられているのです。


(中略)


 浄土真宗を学ぶということは、単なる知識の蓄積ではないのです。阿弥陀如来の慈悲心を知り、それをよろこぶ人生を歩ませてもらうことが浄土真宗の教えを学ぶということです。聖人は阿弥陀如来の本願力を
  無明長夜の灯炬なり  智眼くらしとかなしむな
  生死大海の船筏なり  罪障おもしとなげかざれ   

                     (『註釈版聖典』606頁) 
とのべられ、阿弥陀如来のはたらきを、灯炬(とうこ)と船筏(せんばつ)に喩えています。私自身の生活はまさに、貪欲・瞋恚・愚痴、つまり、むさぼり・いかり・おろかさの煩悩だらけの生活といえます。それはまさに自己を中心とした悲しい生き方で、真暗な夜のような人生といわざるをえません。弥陀如来の本願力は、その暗い闇夜を照らし導く灯炬であると言われています。聖人は灯炬に「常のともしび」という左訓をほどこされています。煩悩だらけの人生は暗闇そのものですから生きていく方向がわかりません。このような暗闇でおぼつかない私の足元を、あかあかと照らして下さり導いて下さっているのが本願力であり、灯炬と喩えておられるのです。私の人生は灯炬に導かれ浄土への歩みをしている人生です。つまり必ず仏と成ることができるのです。また、迷いの中の私の生き様を、海原に浮き沈みしている姿に喩え、その私を救うためにやってきている船、筏こそ弥陀如来であるとのべられているのです。


(中略)


 阿弥陀如来大慈悲心を知る仏教の学びは、単なる知識の積み重ねだけを目的としておりません。また人間の恣意をまじえながら伝えたり、広めたりするものでもありません。仏の大悲心を体解味得していく世界でありました。心して学びつづけたいものです。
【学びの友 41巻4号  中央仏教学院講師 北畠晃融(仏教担当)より】



同感です。全くその通りだと思います!
私も、心して学び続けたいと思います。