手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

元日の念仏(御一代記聞書 第一条)

 

【現代語訳】

勧修寺の道徳が、明応二年(1493)正月1日に、蓮如上人のところに年頭の挨拶に来られたとき、蓮如上人は仰せになりました。「道徳は何歳(いくつ)になられたか。道徳よ、念仏申されよ。その念仏に自力と他力があって、自力の念仏というのは、念仏を多く称(とな)えて阿弥陀仏にさしあげ、称えた功徳によって仏がお助けくださるように思って、称える念仏である。他力の念仏というのは、阿弥陀仏を信じて疑わない心がひとたび起こるとき、ただちに仏のお助けにあずかるのであるから、そののち念仏を称えるのは、お助けにあずかったことを、ありがたいことありがたいことと喜び、その思いからただ南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と称えるばかりである。そういうことであるから、他力とは、仏の力ということであって、凡夫の力ではない。この他力を信じて疑わない心が寿命(いのち)の終わるまで貫きとおって、浄土に生まれていくのである」と仰せになったのです。

※勧修寺の道徳

蓮如上人の門弟で、山城国山科勧修寺(京都市山科区勧修寺東出町)の西念寺の開基

 

【解説(後半部分)】

 この(御一代記聞書)一条では、念仏をすすめるとともに、念仏に自力と他力とがあることを示されています。世の中に念仏を称える人は多いが、正しく念仏の心をいただいている人はきわめて稀であるので、それをさとされたご教化であったのです。

 自力の念仏とは、念仏を数多く称え、その功徳をさしあげて仏のお助けをいただこうと考えて、称える念仏で、念仏を「自分の善根」にしてしまっているのです。これに対して、他力の念仏とは、自己のすべてを阿弥陀仏におまかせするとき、ただちにお助けにあずかるのであって、そこに出てくる念仏なのです。それは、なんとありがたいことよ、とお助けを喜び、お礼を申し、感謝する心の表出であって、ただ他力、すなわち如来の願力のままに念仏しているのです。

 このように他力の念仏は自己の力(自分)を少しも混えない念仏ですから、念仏を称えているままが他力なのです。

原口針水和上

 われとなへわれきくなれどこれはこれ

   つれてゆくぞの弥陀の呼び声

という歌、また甲斐和理子女史

 み仏のみ名よぶ声はみ仏の

   われを呼びますみ声なりけり

という歌に、その法味が端的に示されています。

 自力・他力は、ただ念仏についてのみいわれているのではありません。信心についても、自力の信心、他力の信心といように示されるのです。私たち自身のはからいが自力、これに対し、如来の御はからいが他力です。したがって、自分のはからいが少しでも混ざっているなら、その信心は他力の信心ではありません。如来の御はからいである大悲心から出てくるということが他力の信心であって、そこには自力のはからいもまた疑いの心もまったくありません。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書(一) 瓜生津 隆真 大蔵出版 P15~P 17より】

【解説の(前半部分)】は、2018年1月1日の投稿をご参照ください。下記、リンクです。

tarou310.hatenablog.com

 

 5年前(2018年1月1日)にも同じ内容で投稿していました。このブログを書いている途中、気付きました(笑)。その時の解説は前半部分で終わっていますので、今回は後半部分を記載しました

 正月といえども時間は過ぎていきます。この今も「南無阿弥陀仏の世界」に浸っている(現在進行形)生活に、ただ感謝しかありません。

 一度(ひとたび)、南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、「他力を信じて疑わない心が寿命(いのち)の終わるまで貫きとおって、浄土に生まれていくのであると、今回(御一代記聞書 第一条にて)、ご教示いただきました。ありがたや~

おかげさまで 正月も 南無阿弥陀仏