手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

お念仏

 「念仏」は人間が起こすところの修行ではない。なぜか。その理由は、「念仏」が阿弥陀仏の工夫になる「行」だという点にある。「わが名を称せよ」という要請は阿弥陀仏が設けたことである。人間が成仏の手段として開発、発明したことではない。もっぱら阿弥陀仏の工夫にかかる。ということは、私が「南無阿弥陀仏」と称することは、同時に阿弥陀仏が私のなかではたらいていることを意味する。阿弥陀仏が私のなかではたらく相(すがた)が「念仏」にほかならない。
 たしかに「南無阿弥陀仏」と称えるのは私である。阿弥陀仏の誓願を信じて「念仏」しようと決意するのは私である。だが、私が「南無阿弥陀仏」と称するのは、同時に阿弥陀仏の誓いが私において現実化していることなのである。阿弥陀仏の存在という点からいえば、阿弥陀仏は称名という形式によって私のなかに存在する、ということになろう。
 それ故に、親鸞は称名を「大行」とよんだ。「大」とは阿弥陀仏の行為であることを示す。人間の修行ではない、という意味でもある。『歎異鈔』の文章でいえば、「誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字(名号のこと)をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば」(第十一章)とあるところの、阿弥陀仏によって「案じいだ」されたものが名号(「南無阿弥陀仏」)にほかならない。称えるのは私だが、阿弥陀仏が私にいう「場」を得て、自らの工夫を実践しているのである。
【行動する仏教 法然・親鸞のおしえを受けつぐ 阿満利麿 筑摩eブックスより】



まさしく、一心同体 南無阿弥陀仏です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏



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