手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏は希望の源

 法を聞いて至らぬ己れに気づくということは、自己に執じていた心の結ぼれがほぐされてゆくことである。自己を中心に廻っていた執我の軌道を破れて、自己を超えるまことの世界が現れて下さることである。法の静風に吹かれると始めて滞ることなく、自己を忘れることが出来る。自己の至らぬことが気を病む原因とはならずに、慚愧と摂取という不思議なよろこびの種となる。そうならねばならぬ訳がある。
 アミダ仏の大悲のむねにしっかり抱かれている自分に帰ってみれば、自分のなしたことに批判指摘を豪ってもさのみ気を病む種とはなり難い。こうした至愚に自分であれば、間違いを起すことももとよりであり、それを指摘されて気づくことは寧ろ有難いことである。至らぬ己れとは、己れの愚かさを口実に自己を弁解することではなく、批判をよろこんで聞く心である。どんな失策をしでかしても、抱かれている大悲のみ手に狂いはない。その点安心なことである。そうなってくると右にも左にも気を病むところはなくなって清々する。何を煩って過去の幻を追って苦しんでいたのであるか。有難いことだと肩の荷が下りる思いがする。
 こうして開かれる新しい心の底からも、気に病む旧(もと)のままの心がまたフト湧き起る。しかしそれこそ執我の外なき私の心の偽らぬ姿である。偽りの心よりも偽らぬありのままこそ有難い。なぜならその底にはいつも大悲がまちうけたまうてあるからである。限りない我執が限りない大悲に転ぜられてゆくところ、われわれの日々は新しい。法を聞く人は日毎に新しい門出に立つ。昨日までの失敗も間違いもすべて拭われた出発点に今日は置きかえられてあることを知る。大悲はたえまなく過去のくもりを拭いたまう。だから念仏は希望の源である。
【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P77,P78】



「底にはいつも大悲がまちうけたまうてある」
ですので、
「限りない我執が限りない大悲に転ぜられてゆく」
となります。
そのことに気付かされた日々の生活には安心があります。
つまり、「生きてよし、死んでよし」の人生です。
南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされるか否か、非常に大事なところです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏