手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏はよろこびの声

 家が小さいので四畳半の部屋を増築して、一方に取付けの書棚を大工に作ってもらった。洋間にしつらえたので塗装屋が来てその書棚にニスを塗って仕上げた。帰ってから見ると上の方の棚は塗ってあるが、下二段の裏が塗ってない。さては忘れたなと思うて早速呼んでみると、なにも忘れたところは無いと言う。下二段の裏をのぞかせて此処だと言うと、へへと笑うて、「座っておれば見えぬところです」と答えた。私は唖然とした。「見えても見えないでもよいから全部塗って下さい」職人は、「いらんことだっせ」と言いながら塗り上げて帰った。
 私は建築や部屋造りの事は知らぬが、昔はこうでもなかったのではないかと思う。総てが人間だけの眼だけを相手にして作られ動かされてゆくとしたらどうであろう。世界は人間の眼で見えるだけのものではない。見えても見えずとも動いている世界の真実がある。此の真実を敬い、この真実を見る眼が慕われる。現代の果敢なさは、人間がその眼を以って総てとしているところにある。人間中心の自覚が更に人間を超えたものの自覚に生かされて来なければならぬ。単なるヒューマニズムに止まっておられない所以もここにある。念仏は人間を超えて、人間の上に生かされる光をしかと此の身にいただいたよろこびの声である。
【慈光の旅 −信仰と反省− 井上善右衛門 自照社出版 P15,P16より】



最後の文いいですね。
「念仏は人間を超えて、人間の上に生かされる光をしかと此の身にいただいたよろこびの声である」
南無阿弥陀仏と受けとって、南無阿弥陀仏と(報恩感謝の念仏を)称える。阿弥陀さまと私の距離感がなくなった証拠です。感応道交です。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏