手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「たすけたまへ」  〜コペルニクス的転回〜

「たすけたまへ」という語は浄土宗の鎮西派で使われていたが、それは仏に対する衆生の祈願、請願の意味、つまり自力的な信心の性格をもっていた。
しかるに蓮如上人において、この語の自力的使用法から他力的使用への空前の転向、コペルニクス的転向とでもいうべきものがおこなわれたのである。
「たすけたまへ」という語がその本来のあり方へとつれもどされたと言ってもよい。
いったい、「たすけたまへ」は、弥陀を「いかように」たのめばよいかという仕方を教えたのである。
しかるに「いかやうに」弥陀をたのめばよいのかという問いに対する上人の答えは「なにのやうもなく」ということである。
つまり、弥陀をどのようにたのむかという凡夫の側のすべてのはからいが無用になった他力の信心の立場を「たすけたまへ」という言葉によって表現したわけである。だから自力の請願の意味はこの語から完全に一掃されている。
それは「帰命とは本願招喚の勅命なり」という『教行信証』の立場をすでに通過しているからである。
蓮如のラディカリズム 大峯 顕 法蔵館 P95,96より】