手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

真と偽

 

  以前、加藤唐九郎の焼物の偽物の記事が、新聞紙上をにぎわせていました。専門家でもだまされるほど、本物とそっくりの偽物だったそうです。世の中には手の裏表のように本物もあれば偽物もあるのが常ともいえます。ところで、私たちは、本物と偽物とを峻別する目をどのようにして持ったらよいのでしょうか。

 ある先生からお聞きした話です。昔のことです。

 大阪のある骨董屋(こっとうや)では、使用人の丁稚(でっち)に最初の二年ほどは、便所掃除と共に、修行のため本物ばかりを見せるそうです。二年間の修行の後に本物そっくりの偽物を見せるのだそうです。そうすると、本物・偽物の峻別は見事につくそうです。ところが、最初から本物や偽物を交互に見せると峻別できなくなってしまうそうです。

 私はおもしろい話だなと思いました。宗教の世界も同じではないでしょうか。

 何が本物で、何が偽物の宗教かを見分けるには、やはり、まず本物の教えに出会わなければならないでしょう。ところが、私たちは二度とくり返しがきかない、たった一度のいのちを生かすべき本物の教えに出会っているといえるでしょうか。

【正信偈(しょうしんげ)62講 中村 薫 法蔵館  P19、P20より】

 

最初で最後の人生です。

本物の教えに出会っている人生となっているでしょうか。このいま、本物の教え(南無阿弥陀仏のはたらき)に出会っているか否か、とても大事なところです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏