手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信を得てからが始まり

どうも(浄土)真宗には、この「少しずつ成長し続ける」ということが無視されている傾向があります。禅宗でも「悟後(ごご)の修行」とか、「聖胎(しょうたい)の長養(ちょうよう)」というようなことが大事にされているようです。さとってからが本格的な修行なのではないでしょうか。真宗もそうでして、信があって初めて本当の意味での聞法(もんぽう)が成立するのでしょう。信を得たら終わりではない。むしろ信を得て初めて、み教えが「ほんま」と聞こえるようになるのですから、それからがほんまの聞法なのです。教えを聞くことが楽しくなるわけです(談:梯實圓)。

【平等への視座-対談・歴史的課題と教団- 梯實圓 上山大俊 P73、P74より】

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ここでは、信を得たら(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたら)それで終わりではなく、むしろ始まりである、といわれています。そして、教えを聞くことが楽しくなるとあります。私の場合、楽しいと同時にやすらぎの時間となっています。根底に大安心があるからなのでしょう。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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