【歎異抄第十条】
「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。
【語注】
無義をもって義とす
人間の思慮分別を加えないことをもって本義とする意
【現代語訳】
「念仏は、義(はからい)無きをもって本義とする。称(はか)ることもできない、説くこともできない、思議することもできないから」とおおせになりました。
念仏は、称ることも不可能、説くことも不可能、思議することも不可能である。仏意測りがたしである。人間のはからい(義)をまじえないのが本羲であるという表現において、念仏の何たるかを表している。
わかる、わからないという問題ではない。わかる、わからないというのは人間のはからいである。念仏はそれを超えた世界である。都合や分別を超えた世界、つまり、利用しようとか、まにあわせようとか、手段化しようとか、ワクにはめようとか、決めようとか、そういうことのできない世界である。それらの思いが破れたとき、うなずける世界である。
【歎異抄 心に刺さるメッセージ 田代俊孝 法蔵館 P92、P93より】
「理屈なしに南無阿弥陀仏」ということですね。そうなったら、しめたものです~。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏