手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

浄土真宗における行

 浄土真宗における行とはどのようなものでしょう。浄土真宗について、少し知っておられる方ですと、どこかで「浄土真宗には行がない」、「修行しなくてもいい」といったことを聞かれた方もおられるかもしれません。これは、一面では正しいですが、正確ではありません。
 仏教における修行では、正しい行い、浄らかな心をもって真理を体得して行く必要があります。しかし、親鸞聖人は「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(『教行信証』「信巻」・『註釈版聖典』231頁)と示され、私たち人間は、さまざまな欲望が次々と沸き起こり、偽り諂いを繰り返して浄らかな心など一瞬たりとも保てない存在であるといえます。また、「悪性さらにやめがたし  こころは蛇蝎のごとくなり  修善も雑毒なるゆゑに  虚仮の行とぞなづけたる」(『正像末和讃』悲歎述懐讃・『註釈版聖典』617頁)と示されるように、そのような私が修める行は、すべて虚仮の行といえます。ですから、私が行を修め、悟りに近づいていくことは不可能であり、この点からいえば、「修行はない」ですし、「修行できない」といえます。
 しかし、仏教の目的は悟りを開くことであり、成仏に向けて進んでいく必要があります。にもかかわらず、私は、成仏に向けて進んでいく行を修していくことができません。それでは、私が仏と成る道は断たれてしまっているのでしょうか。そうではありません。そのような私を仏と成らせるためにはたらきかけてくださっているのが阿弥陀如来です。
【学びの友5月号 P15,P16 長岡 岳澄 中央仏教学院講師より】 



このあと、浄土真宗の行はどのように捉えられるか、の説明があります。そのまま記載すればよいのですが、以下、抜粋させて頂きます。たんなる怠慢?!(汗)・・・・・・
●浄土真宗の行は、阿弥陀如来より回向される行である。『一念多念文意』に、「『回向』は本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり」と示されている。
●阿弥陀如来より回向される名号、南無阿弥陀仏が行として捉えられ、そこに私たちを仏と成らしめるすべての徳が具えられている。
●阿弥陀如来より、この大行が振り向けられ、私たちが受け取り、それが口から出る。そのことを「大行とはすなわち無礙光如来の名を称するなり」と示されている
●「もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることなし」と、すべてが如来より振り向けられるものであると示されている


以上、まとめますと
浄土真宗においても行があるといえます。ただ、それは私が修めていく行ではなく、如来より振り向けられる大行です。
ここのところが、他宗教と異にする点であり、浄土真宗の特徴でもありますね。
つまり、100%他力ということです。ありがたいことですね。なもあみだぶつ