手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

南無阿弥陀仏とは

 

蓮如さまは、「南無阿弥陀仏の南無というのは、頭が下がる(帰命)ということである。何に頭が下がるのかと言えば、明るい阿弥陀如来の眼南無阿弥陀仏のはたらき)に、文句なく頭が下がるのである。また発願回向(ほつがんえこう)というのは、頭が下がった人に思いもかけない素晴らしい生活の働きが与えられることをいうのである。その素晴らしい生活は、南無阿弥陀仏という素材(体)で造られているのだ」と教えてくださった。

【現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 高松信英 法蔵館 P13(●2 南無阿弥陀仏とは、より】

 

「南無阿弥陀仏」の6文字には、阿弥陀さまの五劫の思惟と兆載永劫という修行、つまり阿弥陀さまの命が込められています。南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされている生活に感謝しかありません。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

今回、紹介しました「現代語訳 蓮如上人後一代記聞書 高松信英 法蔵館」においては「阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)」という言葉が、至るところに出てきます。私としては、「阿弥陀如来の明るい眼」といわれても、いまいちピンと来ないのが本当のところです。「阿弥陀如来の明るい眼」を「南無阿弥陀仏のはたらき」と置き換えることでより理解しやすいです。当書籍を紹介する場合、「阿弥陀如来の明るい眼」というフレーズを「南無阿弥陀仏のはたらき」に置き換えて提示したい、と思います。

 

阿弥陀如来の明るい眼」については、

お慈悲のままに(ブログ)」で言及されています。ご確認ください。下記、引用します。

https://miko415.hatenablog.com/entry/2022/07/20/165302

 

お慈悲のままに(2022年7月20日)ブログより

まず教えを説く者が聞け

(First, a Person Who Preach the Teachings should Hear)

人を教え導こうとする者は、まず自分自身が教えに親しみ、阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことが大事である。その上で、教えを説くならば、聞く人も無理なく自然に阿弥陀如来の心とご縁が結ぶことができるに違いない。

【『現代語訳 蓮如上人御一代記聞書 高松信英(たかまつしんえい)法蔵館』】

 

上記に、「阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)」という言葉があります。著者は自身の『御文さま―真宗の家庭学習―』という著書の中で「阿弥陀如来の明るい眼」の意味について、詳しく書かれています。この『蓮如上人御一代記聞書』の中で、その「明るい眼」の意味が頻繁に出てきますので、その意味を明らかにしておきたく、数例、書き残しておくことにしました。

 

「阿弥陀如来の明るい眼(まなこ)」の意味

1.「観無量寿経」には、阿弥陀如来の智慧の眼は、どんな人の「心の世界」をも明るく見返し、「南無阿弥陀仏」と頭が下がった人をすべて「明るい世界」に導かれると教えられている。 

2.「阿弥陀如来の明るい眼」は、「やっと気がついてくれたか」と喜ばれて、「八万四千人の人がいれば、「八万四千通り」の教えを説かれて、その人を感化されるに違いない。

3.阿弥陀如来の明るい眼にめぐりあい、(有り難いご縁)に恵まれて、「他力信心という素晴らしいおくり物をいただくことができる」。阿弥陀如来の明るい眼とめぐりあうことが大事だと教えられています。