手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

人が真実に気付くとき

 

開カレツルニ 叩クトハ

        柳宗悦

 

 柳宗悦(やなぎむねよし)が晩年に書いた『心偈(こころうた)』のひとつである。「偈(げ)」とは宗教的な歌、いわばゴスペルソングとでも言えようか。原始仏教ではブッダの教えも、リズムをもった詩のかたちで伝えられた。

 イエスの言葉「叩けよ、さらば開かれん」は、有難い言葉である、と柳は言う。感謝しても感謝しきれない真実である、と。しかし、考えてみると、叩くという私の行為が因(もと)で、開かれるという神の行為がもたらされるのだろうか。「さらば ― 」という言葉の挿入は、そう受けとられてしまう。

 だが、神こそが一切の因だとすると、むしろ開かれているのが先で、叩くのが後だというべきではないだろうか、と柳は考える。

 叩こうが叩くまいがいつでも、どこでも、誰にでも扉は開かれているのだ。

親鸞に深く帰依した柳には、仏とは、みずから扉を開いて縁なき衆生を招きよせる存在であった。

 しかし開いている扉を閉じていると感じて、つい叩こうとするのが人間というものだ。叩かずとも開かれているのではないかと教えるのではない。東西の宗教思想について云々するのでもない。すでに開かれていると知らずして叩く人々の、その思いを受けとめるのも見えない世界の道程である。

 柳宗悦の美に対する姿勢もそうだった。発見するのではない。叩いて、開かれていることに気付くのだ。

【折れない言葉 Ⅱ 五木寛之 毎日新聞出版 P232、P233より】

 

 この文章の内容、とてもいいですね。共感します。タイトル(人が真実に気付くとき)や著者の背景からしますと、「浄土真宗の信心(南無阿弥陀仏のはたらきに気付く)」を意識して書かれていると推察します。

「叩く(青字)」という言葉が使われていますが、この「叩く(青字)」を「私の計らい」と置き換えてみるといかがでしょうか。

 つまり、私の思いや考え(私の計らい)をあて力にしようがしまいが、南無阿弥陀仏のはたらきはすでに私に届いている、ということです。すでに門戸は開かれているのでした。

 そして、最後の箇所の「叩いて(赤字)」は「聴聞していくと(仏願の生起本末を聞くと」と置き換えれば分かりやすいと思います。

 『仏教は聴聞に極まる』とご教示いただいた蓮如上人の言葉に従いたい、ものです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

柳宗悦

 

仏願の生起本末を聞く