【本 文】
慈光(じこう)はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜(ほうき)をうとぞのべたまふ
大安慰(だいあんに)を帰命(きみょう)せよ
(『註釈版聖典』558頁)
【現代語訳】
阿弥陀如来のお慈悲の光明は、われわれとははるかに隔たった境地から、いつでもどこでも果てなく照らし、その光明に照らされて信心をいただく者は、自ずからみ法(のり)を喜ぶ心が得られると曇鸞大師(どんらんだいし)は述べられている。衆生の大きな安らぎと慰めとなってくださる弥陀如来を帰命したてまつれ。
【講 読】
この一首は、阿弥陀如来の大慈悲の光明は、私たちに信心の喜び(信心歓喜)をお与えくださる歓喜光(かんぎこう)であると讃えられます。
それは『大経』本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の「その名号(みょうごう)を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念(ないしいちねん)せん」(『同』41頁)の意や、同じく『大経』の阿弥陀如来の光明無量の徳を嘆じられる「それ衆生(しゅじょう)ありて、この光に遇(もうあ)ふものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)して善心(ぜんしん)生ず」(『同』29頁)とある意によって、信の一念に苦悩の世界を超えて、さとりを得べき身とさせていただく喜びを嘆じられるのです。
「慈光(じこう)はるかにかぶらしめ ひかりのいたるところには 法喜(ほうき)をうとぞのべたまふ」とは、阿弥陀如来の大慈大悲の光明は、どれほど如来から遠く離れたところにいようとも、どれほど隔てていても、三世十方(さんぜじっぽう)に光明を蒙(こうむ)らしめ、この光明が心中に到り届いたところに、信心の喜び(法喜)を得ると曇鸞大師はお述べになっている―、このように詠まれます。
【聖典セミナー Ⅰ 浄土和讃 黒田覚忍 P46~P48より】
浅原才市(あさはらさいち):下記リンクをご参照ください
この光明(南無阿弥陀仏のはたらき)が心中に到り届いたところに、信心の喜び(法喜)を得る、という部分は、「聞いて助かるじゃない 助けてあるをいただくばかり」と言われた、浅原才市(あさはらさいち)さんの言葉と重なります。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏