手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

衆生済度できる楽しみ

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道(ろくどう)・四生(ししょう)のあひだ、いずれの業苦(ごっく)にしづめりとも、神通方便(じんずうほうべん)をもつて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと云々。(歎異抄第五条より)

と言われているのです。“自力を棄てて、私のはからいを離れて、如来さまのお救いをいただき、そして如来さまに救われて浄土に往生し、速やかにさとりを開かせていただくことができるならば、今度は、今、阿弥陀さまがそうなさっているのと同じように、「六道・四生」の地獄の底に沈んでいようと、餓鬼道に沈んでいようと、畜生道にいようと、どこにいようと、自在にそういう人々を救うことのできる力が与えられている”と言われます。
  そういう力がないならば、ただ願っただけでは駄目です。いくら願っても力がなければ人を救うことはできません。今度お浄土に往けばその力をつけていただく。お浄土は遊びに行くところではありません。一切の衆生を救済するためにお浄土に往くのです。それが往生浄土ということなのです。
  ですから、自力を棄てて、浄土に往生させていただくならば、速やかにさとりを開いて、そして「六道・四生」、四生とは胎卵湿化(たいらんしっけ)といって迷いの境界(きょうがい)の生まれ方を四種類に分けておられるのです。要するに地獄の底から天上界に至るまでどこにいようと、「いづれの業苦にしづめりとも」、どんな苦しみの中にいようと、今度は「神通方便をもつて」、神通力をもって、生きとし生けるすべてのものを、巧みな方法で手段を設けて救済することができるものにしていただくのです。
 つまり、如来さまに救われて浄土往生できるならば、衆生済度の身にならせていただけるのです。衆生済度することができる身になれば、当然、深い縁につながれた今生の父や母、兄弟、夫婦の近親のものたちを真っ先に救ってゆこうとするのは当然です。それで「まづ有縁を度すべきなり」と仰せられたというのです。
【梯 實圓和上講和集『歎異抄』師訓篇を読む2 自照社出版 P126,P127より】

 

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南無阿弥陀仏のひと(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひと)は、人生終われば、浄土でさとりを開いて、またすぐこの世界に戻り、神通力をもってして、生きとし生けるものの救済活動にはいります。その仲間入りにさせていただけることはこの上なくうれしいことです。まずは、有縁のかたの救済です。どういうカラクリになっているか現段階では知る術はありませんが、そのうちそのことも分からせてもらえます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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