(八二)
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
【浄土和讃 「弥陀経讃」 浄土真宗聖典 (註釈版聖典)P571より】
摂取して・・・
「摂めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(異本左訓)⇒ 摂取不捨
【浄土和讃「弥陀経讃」 浄土真宗聖典 (註釈版聖典) P571 P572より】
このいま、私は、南無阿弥陀仏のはたらきの真っ只中で生きています。
私が、どこへ逃げようが、阿弥陀さまの御はからいの範疇です。
親鸞聖人は、
「阿弥陀さまの救い」について、以下のようにご教示くだされています。
「逃げるもの(私)を追いかけて必ずつかまえる救い」であると。
ちょうど、阿弥陀さまの土俵の上で、鬼ごっこをしているようなものです。
あるいは、お釈迦さまの手のひらにいる孫悟空のようなものです。
阿弥陀さまに、必ずつかまえられます。時間の問題です。
妙好人おそのさんは、うまくいったものです。
「団子汁の喩え」をもちだして、以下のように表現しています。
「あの夕方になりますと、女中がお汁を拵(こしら)えて、それへ団子を入れて下から焚きたてますね。」
「すると団子に煮える気はないけれども、火の力でひとりでに煮え上がりますね。煮え上がったと思う頃に、すぐ、すくい上げて下さりますよ」
このいま、ここで、阿弥陀さまにつかまえられてください。
阿弥陀さまにつかまえられたとき、
つまり、南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされたとき、
南無阿弥陀仏(ありがとう)と報恩感謝のお念仏が溢(こぼ)れ出てきます。
今日も南無阿弥陀仏。