手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

他力の信心

 阿弥陀仏を対象にしてその救済を信じるのではなく、南無阿弥陀仏と称えて、目覚めさせる阿弥陀仏の願いに、うなずく心をいいます。すなわち、すべてを自我中心に生きて迷いを深めている人間が、阿弥陀仏の願いにふれて生き方全体が徹底して糾弾され、ひるがえされた心です。それは天上の月が地上の水面に写るように、阿弥陀仏の心が、そのまま人間の心に印影した心であって、透明で明るい心、智慧ですから、この心を他力の信心ともいいます。
 他力の信心は、他力と思う心ではありません。森ひなさんは、「他力他力と思うていたが、思う心が、みな自力」と言われました。みな自力であったと、頭の下がった純粋な喜びの感動を、他力の信心といいます。だから、他力の信心は、阿弥陀仏の呼びかけに応じて、一心に浄土を願う人を誕生させるのです。
親鸞歎異抄入門 親鸞の教えを知るキーワード 松井憲一 大法輪閣 P101、P102より】



ここで、
「他力他力と思うていたが、思う心が、みな自力」と、森ひなさんも言っていますように、
他力と思う心は、すでに自力なのです。
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かされているのであれば、
敢えて、「わたしは他力の信心を賜っている」と思う必要はありません。
晴天下の真っただ中に身を置いている人が、今は晴れていますか?というでしょうか。
もし、そういう方がいたならば、その方はまさしく頓珍漢ですね。
『きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり』(『註釈版聖典』六七八頁)と親鸞聖人はいわれています。
このお言葉に尽きます。
今日も南無阿弥陀仏



仏願の生起本末を聞く
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20110914