手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

若くても死にます

 

最初は死がなかったような我々が、いつか年とって死がやってくるという、そういうことじゃないんです。若くても死ぬんですからね。八十歳以上になったら死ぬということだったら、それは死への存在じゃない。二十歳でも死にます。一歳だって死にます。交通事故というのは若い人を避けるんですか。そんなことはないでしょう。若い人ほど交通事故にあいやすい。死は年齢に関係ないのです。死は生の始めからスタートしている。ハイデッガーは、「人間は生まれた時に、すでに死ぬだけに十分な年をとっている」といっています。一歳でも九十歳の人と一緒です。生まれたばかりの子供でも、死ぬ資格は九十歳の人とまったく同等にある。これが人間存在というもののありのままの構造だとハイデッガーはいうのです。

【今日の宗教の可能性 大峯顯 百華苑 P49、P50より】

 

 仏教に「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。「生きること」と「死ぬこと」は、紙の裏表のように切り離せない関係である、という意味です。そのように捉えますと、ここで言われている「(死ぬ資格は)一歳でも九十歳の人と一緒です」という言葉も納得できます。

 もし、高齢者から順番に死んでいく世の中であったならいかがでしょうか。次は自分の番である、とはっきり分かることで(自分の順番が近づくにつれ)平常心ではいられなくなるでしょう。人は、いつ死ぬかわからない、からこそ、安心して生きていけるのかもしれません。といいましても、死は着実にやってきます。それは、今かもしれません。

 やはり、南無阿弥陀仏しかないなぁー、南無阿弥陀仏があってよかったなぁー、と思うのです。

 おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏