手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

一切の障害物に障害がない世界

  この本の中で(土橋秀高)先生は『讃阿弥陀仏偈和讃(さんあみだぶつげわさん)』の「光雲無礙如虚空(こううんむげにょこくう)」という一文を二度にわたって引用されています。それは、

 

光雲無礙如虚空

 一切の有礙にさはりなし

 光沢かぶらぬものぞなき

 難思議を帰命せよ

(『註釈版聖典』五五七頁)

 

 というご和讃の冒頭箇所です。しかも、親鸞聖人はこの部分について「ひかりぐも(光雲)のごとくして さはりなき(無礙)こと こくう(虚空)のごとし」と註釈をつけておられます。

 私はここで初めて大変矛盾した内容のご和讃だということに気づきました。「一切の有礙」に「さわりはない」というのですから「あらゆる障害物に障害がない」という意味になってしまいます。ですから、矛盾した内容と言わざるを得ません。しかしこの矛盾が阿弥陀如来のお慈悲に照らされた時には決して矛盾ではなくなるのです。それがこのご和讃の趣旨だと思います。

 土橋先生は、『雲わき雲光る』で次のように述べられています。

悩みの雲はつぎつぎと湧いて絶えることはない。その雲が光とかがやいて、黒い雲がそのまま大空に光り、さわりなく自由自在に流れてゆき、きわまるところがない悩みや障害の雲は次から次へと湧いてくる。その雲が阿弥陀如来のお慈悲に照らされれば光り輝く「光雲」になるのです。

【私の歩んだ仏の道 淺田正博 本願寺出版社 P225、P226より】

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(私が)南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる、別な表現でいいますと、(私が)阿弥陀さまにおまかせ状態になりますと、「一切の障害物に障害がない」状況になります。一見矛盾するように思いますが、そういう世界を味わえる身になるといいますか、そういう境地になります。煩悩は今までと全く変わりませんが、その(煩悩の)受け取り方が変わるということです。究極にいいますと、死は絶対に避けたいという死をマスクするような生活が、死を真正面から受け容れて生きていける生活になる、ということです。ここは敢えて断言します。つまり、南無阿弥陀仏の世界は矛盾を超えた世界です。つまり、人智では推し測ることができない世界なのです。私からみれば本当に不思議ですが、阿弥陀さまからみればごく当たり前のことです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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