手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

念仏者は無碍の一道なり

 念仏を信じる者は、現在においては、何らの幸福をも受けない者であるかというに、念仏者とは無碍の一道をゆく者であると申されたのであります。念仏する人はすべてのことにゆきづまらず、障害せられるということなく、常に自由の天地を進んでゆくのであります。こうしたことをいわれたのを見ても、単なる死後の問題ではないということは瞭(あきら)かであります。
 「念仏者は無碍の一道なり」ただこれだけであります。かかる一句の中に、(親鸞)聖人のいい尽くすことのできない喜びが、あふれているのであります。ここに注意すべきことは、念仏は無碍の一道なりといわれずに、念仏者と申されたの一字であります。私どもは常に、念仏は善の根本、万善の総体だと聞かされておりますから、念仏を鑑札か煙草入れのように心得て、それを腰にぶら下げておりさえすれば楽に通れる、すなわちこれさえあれば無碍の一道であると考えるのでありますが、念仏は私どもがもったり捨てたりする携帯品ではないのであります。また念仏は無碍の一道なりと思っている人は、念仏という大きな道があって、その道を歩いてゆくのであると考えるのであります。しかしここにも出ておりますように、念仏とありますから、念仏する人がそのまま無碍の一道でなければならぬのであります。本願を信じて、念仏が私のものとなり、念仏と私が一つになったこの私という者すなわち念仏者であります。その念仏者が無碍の一道であると申されたのであります。あたかも悪魔払いの払子(ほっす)でももって、邪魔なものがあればそれで払い退けて通るのが、無碍の一道であるというように考えるのは甚だしい間違いであります。そうではなく、本願を信じ、念仏を喜び、念仏すなわち如来と一つになった者は、無碍の一道であるということを申しておらるるのであります。念仏というもち物をするのではなくて、私自身が念仏者とならなければならぬのであります。
【歎異鈔講話 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ)北樹出版 P160,P161より】



ここでもありますように、念仏(南無阿弥陀仏)は、はたらきであって「何かのモノ」ではありません。「何かのモノ」であればやがて壊れてしまいます。念仏者とは、一心同体南無阿弥陀仏の者といえましょう。念仏(南無阿弥陀仏)をもってして、悪魔払いをしようとしても何の意味も効用もありません。ただ、そう思って(悪魔払いのため)唱える念仏(南無阿弥陀仏)もやがて称える念仏(報恩感謝の南無阿弥陀仏)になります。それは、このいまも、阿弥陀さまのお育てに授かっているからです。時間の問題ではありますが、このいまに越したことはありません。念仏(南無阿弥陀仏)を単なるモノや言葉として捉えるか、それとも、はたらきとして受け入れるか、では全く意味合いは違ってきます。南無阿弥陀仏には、阿弥陀さまの「願」と「行」が込められています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏