手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

法然や親鸞の「信心」観

信心とは如来から与えられるものであって、自分の力で手に入れるものではなかったからです。わたしたち人間は如来から信心を賜ることによって救われるというのが、法然親鸞の基本的な「信心」観でした。わたしたちは、浄土門門徒であるかぎり、この「信心」観に依拠しつつ、信心を与えられる瞬間を待たなければなりません。ですが、ただぼんやりと待っているだけでは、いつまでたってもわたしたちの胸底に信心が生まれるという事態は生じようもありません。
【念仏者 蜂屋賢喜代(はちやよしきよ) 伊藤益 著 北樹出版 P163より】



浄土真宗でいう『信心』は、「阿弥陀さまから私へ」という点で、他宗教とは異にします。方向が180度違うのです(他宗教は、私から絶対者に差し向ける、お願いする、祈る)。まさにコペルニクス的転回というべきです。といいましても、ここでも指摘されていますように「ただぼんやりと(救いを)待っている」といった棚から牡丹餅的(労せずしてよいものを得る)なものではありません。『仏法は聴聞に極まる』と蓮如上人はご教示くださいます。聴聞に勤しませるはたらきも阿弥陀さまの「南無阿弥陀仏」のはたらきに依るものです。このいまも、私は、阿弥陀さまのお育てに授かっています。有難いことです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏