手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

我々が必ず仏になれる証拠

 法性法身という色も形もない仏様が、色も形もない世界にとどまっておったら凡夫には永遠に分からないでありましょう。分からすためにはどうしたらいいか。
 そのためには、自分が南無阿弥陀仏という言葉となって、衆生の前に自分を現す以外にないということに気がつかれた。これは仏の不思議きわまる着想であります。人間の着想ではありません。仏が名号になられたということは仏様の考えなんです。凡夫はそんなこととうてい考えることは出来ません。
 南無阿弥陀仏となって呼び掛けたら、どんな眠りこけておる凡夫だって気付くはずだ。それで、名号になって助けることが出来るという確証がついたから、法蔵菩薩阿弥陀様になられたのです。
 そのことを「正信偈」の最初の和讃にはこう述べられています。


弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きはもなく 
世の盲冥をてらすなり


法蔵菩薩は十劫という遠い過去、永遠の昔にもう仏になっておられるのです。衆生を仏にすることが出来るという決着がついたから、法蔵菩薩阿弥陀仏となられたのですから、われわれにはもはや何の心配もないという意味です。
 それで、蓮如上人は、我々の往生の証拠をどこに求めたらいいかというと、それは、すでに南無阿弥陀仏となって立っていらっしゃる仏様のお姿、私の口から出て下さる名号こそ、我々が必ず仏になれる証拠だ、と言われたんです。
【弟子一人ももたず『歎異抄』第六条 大峯 顕 百華苑 P19,20より】