手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏法は聴聞にきはまる

蓮如上人のお言葉を集めた『蓮如上人御一代聞書』(一九三)に、


いかに不審なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなり                    
(『註釈版聖典』一二九二頁)


とあります。
不信の人も仏法の聴聞を通して、阿弥陀仏の大慈悲のはたらきにより、信心を獲ることができるのであると述べられます。
 

同じように、親鸞聖人はその主著『教行信証』信巻に、第十八願成就文を釈して、


しかるに『経』(大経・下巻)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。
(『註釈版聖典』二五一頁)


と述べられています。
 私たち衆生が、阿弥陀仏の本願を起こされた由来(仏願の生起)と、その本願を成就して(本)、現に私たちを救済しつつある(末)ことを聞いて信じる(疑心あることなし)ことが聞である、すなわち「聞即信[もんそくしん]」と述べられます。またこの信心は、阿弥陀仏の本願力(他力)によって回向された信心(たまわりたる信心)といわれます。
【お盆(冊子) 林 知康 本願寺出版社より 抜粋】



『浄土真宗の信心』について、ここで「たまわりたる信心」といわれています。
つまり、阿弥陀さまの本願力によって回向された信心をいいます。他力といわれる所以です。
この点は、自ら祈りを捧げ、救いを求める他宗教とは180度異なります。
今日もなむあみだぶつ。