煩悩を生きる私たちと(阿弥陀仏の)本願との関係について、親鸞は、次のように和讃している。
本願力(ほんがんりき)にあいぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳(くどく)の宝海(ほうかい)みちみちて
煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし
「高僧和讃」
阿弥陀如来の本願の力に遇ったならば、煩悩のなかに生きているそのままに、私たちは無上涅槃に至らしめられる。仏になりたいと願う私たちに対して、そのような誓願されているのである。煩悩のままに生きる私たちの現実は、仏陀となることから見放された空しい人生ではけっしてない。浄土に生きる者となりたい、と念仏道を歩むならば、無上涅槃が約束された人生になろう。そのための目覚めが本願によって与えられているからである。
本願を信ずるとは、「生かされている私」であると自覚しつつ、「私が生きている」という自我が念仏によってたえず打ち破られることなのである。
【親鸞が出遇った釈尊 小川一乗 真宗文庫より】
「本願を信ずるとは何ぞや?!」の回答において、非常に分かり易く解説されています。いろいろな表現法があろうかと思います。ここでは「自我が念仏によってたえず打ち破られること」とあります。素晴らしい言いまわしだと思います。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏