親鸞聖人は『唯心鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』のなかで、
この信楽(しんぎょう)をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚(しょうじょうじゅ)の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり。
(『注釈版聖典』七〇三頁)
と、浄土真宗の信を明らかにされています。
信を語らぬ宗教はないのですが、「やぶれず、かたぶかず、みだれぬ」と言い得る信 は浄土真宗だけです。凡夫の発すものではなく、まさしく如来回向(にょらいえこう)の信であるからです。
『最要鈔』のことばで言えば、
この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。
(『真宗聖教全書(三)』列祖部、五〇頁)
ということです。
【ことば -仏教語のこころ- 藤澤量正 本願寺出版 P61、P62】
浄土真宗の信心は、他の宗教と異にします。「やぶれず、かたぶかず、みだれぬ」とありますように、絶対壊れない金剛の信心なのです。ですので、その信心を賜れば大安心の生活となります。つまり、死んでよし生きてよしの生活になるということです。信心を賜る、といいましても何かのモノ(物体)ではありません。いうならば、はたらきです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏