手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「他力本願」の本来の意味は・・・

私たち真宗門徒の間にも、他力という語に対する誤解や混乱がないわけではありません。たとえば「生かされて生きる」ということを他力であるという言う人がいます。たしかに私たちは、自分の能力や努力だけでは生命を維持できません。ツメや髪の毛が伸びるのも私の意思ではありません。つまり私たちは、誰一人として自分の力だけで生きられる者はいません。その意味では、まさに生かされて生きています。そのことを否定はしません。しかしそれを言う場合でも、生かされているという恩恵の面だけを言うのでは不充分で、「死なされて死ぬ」という好ましからざるもう半面の事実も、合わせて言う必要があるのではないかと思います。いずれにしましても、生命を維持するはたらきは、浄土真宗でいうところの他力本願とか他力回向ということとは、何の関係もありません。『教行信証』やその他の親鸞の著作には、そのような意味で他力の語が使われる例は見当たりません。親鸞がいう意味での他力とは、法蔵菩薩が衆生を浄土に迎えるために建てた本願のはたらきを指します。つまり「他力本願でなければ往生できない」という文脈でのみ使われるのが、本来の意味です。
【教行信証 大河流覧 藤場俊基 法蔵館 P57より】

 

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「他力本願」の本来の意味をしっかりと整理したいものです。
仏教からでた「他力本願」は、仏教に即した意味で使用されるのが当然です。しかしながら、間違った使い方が散見されます。とても残念なことです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏
※下記にリンクを貼っておきます (他力本願について)

 

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