手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

平等な命

 妙好人の浅原才市という方がおもしろいことを言っております。


これ才市、何処におるか
浄土もろうて娑婆におる
それがよろこび
南無阿弥陀仏


 ガンジス河の砂の数を超えるほどのご縁を取り去ったら、ゼロである。それを仏教では、「お浄土」というのです。もともとゼロである私が、ガンジス河の砂の数を超えるほどのご縁をいただいて、この瞬間、吐く息、吸う息をいただいている。そのことを才市は、「浄土をもろうて娑婆におる。これがよろこび、南無阿弥陀仏」と言っているのです。
 私たちは、人間に生まれようとして人間に生まれてきたわけではありません。魚もそうでしょう。あるいは、草でも花でも、自ら「花になろう」と思って花になった花はないでしょう。みんなご縁です。さまざまなご縁をいただいて、それぞれがこの瞬間の命をいただいている。みなそれぞれにガンジス河の砂の数を超えるほどのご縁によって、それぞれの命を賜っている。そういう命であることにおいて、人間も、鳥も、牛も、魚も、草も、花も、みんな「平等な命」を生きている。これが仏教の基本なのです。「平等な命」というのは、毎日働いて同じだけお金をもらって、同じ家に住むというのではなくて、「この命は私のものではない。この命を私のものだと言える私などはないのだ」ということに目覚めることによって明らかになる命の在り方なのです。
 仏教では、命は自分のものではないから平等なのです。難しい言葉でいうと、それを無我というのです。
【いのちの尊さ 小川一乗 著 法蔵館 P37,P38より】



生かされている命!
一日一日、ご縁を大事にしたいものです。
今日も南無阿弥陀仏