手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

仏教に対する誤解 〜仏教は、このいま生きている人の教え〜

 死の関門に立つと、誰しもこの地上に一人取り残され、自ら消えていくのである。しかも、この死は老少不定であり、いかにスポーツマンの元気な体でも、次の瞬間には、事故によって自らの生が奪われる可能性がある。そのような危うい生を生きているのが現実である。この生死の壁は、いかなる経済力をもってしても、科学的知能を絞り上げても、解決の答は与えられない。この壁から逃避するのでもなく、ごまかすのでもなく、正しくこえていく道を明らかにしたのが仏教である。
 浄土真宗の上では、正しくこの答が、南無阿弥陀仏の六字の法である。一般には、念珠をきって仏壇に礼をする宗派は、自らの煩悩を除くとこえていくことが可能である。しかし、浄土真宗では、親鸞聖人も『正信偈』に「不断煩悩得涅槃」とあり、現存在のそのままで、こえていく答が、既に届けられているのである。
 それは、いつでもどこでも、さらに誰にでも与えられているのが、南無阿弥陀仏であり、さらに在家仏壇の右側には「帰命尽十方無礙光如来」とある。この名号があるにも関わらず、一般には、仏壇はすべて死人とのかかわりあいのものと思われていることは、最も悲しむべきことである。
 この名号に遇う場は、今ここであり、これによって死の壁をこえた世界に生かされるのである。しかも生存中は、人間の生きる上の完全なブレーキとなるのである。人間はいかなる人でも、『歎異鈔』にある「さるべき業縁」がもよおすと、何をするかわからないものを持っているのである。道徳倫理も正しくブレーキとなるが、これに従わんとする良心は、居眠りすることもありうるのである。これとは違って、完全なブレーキの役割をするのが念仏の法である。
 それゆえ、仏教が、この世に用事の無いもののように思っているのは、誤解者である。仏教は、人間の生きていることそのことに関わる問題を解決する法であり、さらに生きていることからは、あたかも車のブレーキのごとく、人間の生きていく本当の答えを与えてくれるものである。
【地獄と極楽 その現実的意味(あとがき) 稲城選恵 著 法蔵館 P124〜P126より】



仏教は、「このいま」生きている人の教えです。
とりわけ、浄土真宗の教えに、
『なぜ、わたしが・このいま・ここに生きているのか?』という問いに対する答えがズバリ明示されています。
かつての総理が、「人命は地球より重い」という言葉を残しました。
しかし、「なぜ、人命は地球より重いのか」に対する答えを明確に回答できる人は殆どいないのが現状です。多くの知識人をはじめ、いろいろなひとが、それぞれの見解を述べていますが、いずれも焦点がぼけています。
その回答(わたしが、いま・ここに生きている意味)は、ここで(稲城和上は)、
浄土真宗の上では、正しくこの答が、『南無阿弥陀仏の六字の法(を聞くこと)である』と断言されています。
つまり、わたしが、このいま・ここで『南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂くこと』が、わたしの存在理由ということになります。
今日もなもあみだぶつ