手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

自分の都合

 私たちというのは、いつでも゛自分の都合〟でしか物をみることができないし、自分からしか始まらないのです。私たちは全てを自分の都合という物差しで、善し悪しを決めている、ということを表しているんです。
 例えば「今日は、いいお天気ですね」という挨拶をよくします。「晴れの日はいい天気だ」と誰が決めたんやということなんです。天気予報をなさっている方に、言われたことがあったんです。「晴れの天気や、雨の天気はあっても、いい天気や悪い天気はないんです」と。いやあ、なるほどその通りだ。確かに、いい悪いって自分の都合で言っているな。
 例えば、「あの人、いい人よね」と言うときは、よくよく考えたら、自分にとって都合のいい人っていうことなんです。それともう一つは、どんな場合でも「自分からしか始まらない」ということがあります。
 これの、よくわかるのは写真を見るとき、どこから見るのかということです。お友達とどっかに遊びに行った。そして一緒に写真を写して帰ってきた。出来上がってきたその写真、どこから見るかということなんです。実は、自分の顔からしか見ないんですよね。誰と一緒に写したか、どこで写したか、そんなことはみんなわかっているはずなのに、自分の顔からしか始まらないのです。
 そういった、いつでも自分の都合でしか物を見ることが出来ないし、自分からしか始まらない。だから真実というか、正しく物事を見れていないのですよ、ということを教えるのが「迷っているんですよ」って言葉なんです。
【みほとけとともに第3巻 本願寺出版社 小林顕英(大阪府・法栄寺前住職 本願寺布教使)P67,P68より】

ここで、紹介されている2つの例え、頷けますね。わたしも自分大好き人間です〜