手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

この今も光明の中

極重悪人唯称仏  我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見  大悲無倦常照我

〈極重の悪人はただ念仏を称すべし 我亦彼の摂取の中にあれども
 煩悩眼を障えて見ずと雖も 大悲倦(ものうき)ことなくして常に我を照したもうといえり〉


大意
 極重の悪人は、他の方法では仏になることができないから、ただ阿弥陀如来の名号を称えなさい、かならず摂取不捨の光明のはたらきで、浄土に往生することができます。私もその人々と同じようにして称名して、彼の摂取不捨の光明の中にあるのであります。煩悩のために眼を障えられておるので、その光明を見ることはできませんが、如来の大悲の光明は、少しも倦むことがなくて、いつも私の身を照らし護って下さるのであります。


大悲無倦 / 極重の悪人は、ただ仏名を称えなさい、念仏するものは阿弥陀如来の摂取不捨
の光明におさめとられておるのであります。私も煩悩のために眼をさえられて、その光明を見ることはできませんが、如来の大悲は決してうむことなしに、いつも私を照らしまもっていて下さるのだと、源信和尚は讃嘆されてあります。私にはこのことばはこのままで、何んの説明をくわえなくても、こころのそこまでひびいて下さるのであります。いつでも、どんな場合でも如来は「おお」とよぶと「おお」とこたえて下さるのであります。
 源信和尚も晩年の作といわれておる『観心略要集』(寛仁元年六月に示寂。その年の五月の作)には「すなわち知んぬ、我等も彼の光の中にありて、鎮(とこしな)えに照耀をこうむれども、煩悩に眼をさえられて、みたてまつることを得ずといえども、大悲ものうきことなくて、常に我が身を照らしたまえば、罪障おのずからのぞかれん」としめされてあります。これは和尚がいかにこの「大悲無倦、常照我身」ということばに動かされ、ふかい感銘を受けておられたかをうかがうことができるように思われます。
正信偈に聞く  桐渓 順忍 集  教育新潮社 P169,P170より】

我亦
我とは源信和尚自身のことで源信和尚もまた、極重の悪人と同じく称名によって摂取の
光明の中にあることを示されたものであります

無倦 
倦は疲倦の意味で、うみ疲れること、ここではそのうみ疲れることもなく、常に照らした
もうことをいいます



このいまも、阿弥陀さまの大悲の光明は、少しも休むことなく、絶えず、私の身を照らし
護って下されている、ありがたいことです。
南無阿弥陀仏のおはたらきを気付かせて頂く、肝要です。
今日も南無阿弥陀仏