手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心について 確信を得たい! はっきりしたい!

 信心について確信を得たい、はっきりしたいとのぞむことは理解できることであり、『阿弥陀経』でも六方の諸仏が、間違いないと証明して下さるのもそのためであり、また金剛堅固の信心だから、いかなるものにも破壊されないものであり、動かないものだともあります。しかし信心には、このご文のようにはっきりしない一面があり、また、不可称、不可説、不可思議だともいわれ、口で説くことも心で思いはかることもできないものだともいわれております。いったいどうなんでしょうか。


 元来はっきりとか「確か」といわれておるものはどんなものでありましょう。私にはそれを広く考えると、だいたい三つの様態があるように思われます。一は知性的なもの、二は経験的なもの、三は仰信的なものであるといいたいのであります。


 一の知性的なものというのは、自分の知っている道理や理屈に合っておる場合におこる確実さであります。これを私は第一のはっきりといいたいのであります。たとえば、一個十五円のりんごは十個で百五十円だということははっきりしたことで、だれが何んというても私は疑いません。この知性的なものからくるはっきりは、もっとも確実なものだといってよいでしょう。しかし、もし阿弥陀如来の本願を信ずるのに、このような確かさが必要だとすれば賢い者のためであって、愚かな者のためだとはいえなくなります。如来の救済は、善人も悪人も、賢いものも愚かなものも、わけへだてがないものだから、このようなはっきりは必要がないのであります。さらにまた、絶対といわれる如来の本願、不可称・不可説・不可思議といわれる如来の本願は、いかに修行した者でもわからない。菩薩の最高である弥勒菩薩でも仏果のことはわからないと説かれてあります。だから凡夫の知恵では、本願のいわれを十分理解して、知性的にはっきりさせることは不可能であります。この意味からしますと、知性的なはっきりは、いりもしませんし、できもしませんということになります。


 二の経験的なものというのは、幾度も経験したから、理論的には明瞭に説明できないが、はっきりしておるものであります。たとえば、火は熱い、氷はつめたいということははっきりしております。白米にして幾年もおいた米はまずいということも、道理としてはよく説明することはできないが、経験によってはっきりしております。こうしたことを、私は経験的に確信というのであります。如来の本願や浄土往生という問題は、人間の経験することのできないものでありますから、こうしたはっきりもおこらないのは当然であります。


 三の仰信的なものというのは、自分には知性的にも経験的にもはっきりしたものではないが、自分の信用しておる人の仰せだから、それに任せていくという態度であります。たとえば、自分にははじめての旅で、道もはっきりしないが、よく知った人と一緒の時は、まったく心配せずに任せて行くような場合、これは知性的なものでもなく、また、経験からくるものでもない。ある意味でははっきりということのできない性質のものかも知れませんが、そこには少しの不安もなく、ためらいもなく、すべてをうち任せておりますから、その意味でははっきりといってもよいと思います。信心のたしかさ、はっきりさはこのような態度のものだと思われます。


 私たちの望んでいるはっきりとは、どの態度でありましょうか。よく考えてみなければならないことでありましょう。『歎異抄』に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかうふりて信ずるほかに別の子細なきなり」とおおせられたのは、この第三のものを示されるのであります。浄土真宗の道は、ただただ如来や聖人のおおせにお任せしていくよりほかはないのでありましょう。
正信偈に聞く 桐溪順忍 集 教育新潮社 P61~P63より】


桐溪順忍(きりたにじゅんにん)
明治28年富山県に生まれる。大正13年龍谷大学研究科卒。真宗学専攻。
中央仏教学院講師。龍谷大学教授を経て龍谷大学名誉教授、本願寺派勧学寮頭。
昭和60年10月4日歿。



「信心について確信を得たい!」多くの人の関心事だと思いです。 
桐溪和上において、分かり易く説明されています。
阿弥陀さんに、ただただおまかせ」それでいいんじゃないでしょうか。