手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

何よりの証拠

 阿弥陀仏の本願とは遠い国の夢物語ではないのであって、自分がこの歴史世界にあって、阿弥陀仏の本願のいわれを説いているということが、阿弥陀仏の本願が人類を救済するかたちで出来上がっていることの何よりの証拠である、と釈迦牟尼仏陀は説いていられます。
これは実にすっきりした申され方だと思います。釈尊の説法があるということが、それが阿弥陀仏の本願が人類を救われねばならぬように出来上がってあるということの何よりの証拠であると、こう申されるのであります。
 それで親鸞聖人は、釈迦牟尼仏陀の説法によってそのように証明せられている本願のいわれを、「まことにそうでございましたか」と、その本願の思召しのままに自分を投げ出して信順するほかに、人類の救済されるということはないではないか、親鸞聖人は、はっきりと申されているのであります。本願のいわれということのほかに、阿弥陀仏はましまさないのでありますから、その本願のいわれに信順し帰命するということが、南無阿弥陀仏という念仏なのであります。
【大乗としての浄土  空・唯識から念仏へ 山口 益 大法輪閣 P186,P187 より】



すでに、一人一人に届けられている南無阿弥陀仏
ですので、
わたしは、阿弥陀さまから南無阿弥陀仏を賜らせて頂く、
わたしは、阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきに気付かせて頂く、
わたしは、阿弥陀さまの一方通行の仰せに「ハイ!」と応えさせて頂く、となります。
あくまでも、わたしは受け手です。