手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

ただ仏語によってのみ確立する

第二条(歎異抄
 この条は、北関東から京都まで、数百キロにのぼる危険な旅をつづけて、聖人をたずねてきた若い門弟たちに、念仏の信心が端的に示されています。


親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。


と答えていかれる言葉には、門弟を教えさとす、師としての態度ではなく、むしろ自分自身の念仏の信心を、率直に告白するかのような響きがありました。あるいは、浄土にまします恩師法然聖人に対して、弟子親鸞が領解を述べられる言葉であったともいえましょう。
ついで


「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」


と言い切られます。おそらく門弟たちは、「念仏すれば必ず浄土に生まれることができる、決して地獄に落ちることはない」という確信にみちあふれた聖人の証言を期待してたずねてきたにちがいありません。
しかし、その期待にひそむ危険性をだれよりも聖人はよく知っておられたのでした。人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。
歎異抄 現代語訳付き 梯實圓 解説 本願寺出版社 P154より】
http://d.hatena.ne.jp/tarou310/20101210