手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心

 「弥陀たのむ」とは、如来様が、ただで助けて下さるということである。ただで助けて下さる阿弥陀如来の大誓願力を忝(かたじけ)なしと仰ぐことである。「信心を自分が取った」「いただいた」「いただきたい」と思うのは、信心を固定した品物のように扱うておるのである。また自分が信じたのが信心と思っているのである。
覚如上人は、
 「信心をば、まことのこころとよむ上は、凡夫の迷心にあらず、全く佛心なり。」(最要鈔)
と仰せられた。念佛でも、信心でも、自分がこれを独占しようと思うところに、自力が混って往生を仕損ずるのである。


 如来様が「助けて下さる」から「助かる」のである。阿弥陀様が「よんで下さる」から「参られる」のである。そのことを忘れて、「信心」「信心」と、いくら云うたところで、何の役にも立たぬ。
 信心は、「信心」という言葉さえ忘れて、ひとえに「如来様の大悲の本願力あればこそ」、「南無阿弥陀佛」のよびごえがあればこそ」「親様なればこそ」と、向う様の方にばかり眼をつけて、自分の方には三文の値打も認めないのが、真実の信心というものである。
 自分の力、自分の智慧、自分の考え、自分の思いを少しも混ぜず、自分の方を見たら、いつでも妄念の凡夫、煩悩具足の凡夫であって、「どうしても佛にはなれぬ身である」と、本願の月に照らされて、そのことが分かると同時に、「不可思議の如来の願力なればこそ」と、願力の方に眼をつけたのが信心である。
【法雷10 1997 第250号 P6〜P8 稲垣瑞劔 より】



先日、願教寺(盛岡市)に行った時、「法雷」という冊子に目が留まりました。
勧められていた「法雷」12冊(1冊100円)を求めてきました。
「信心」について分かり易く教えておられます。