手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心 (その2)

わたしはそんなものに乗ったつもりはありません。信じているか、信じていないかよくわかりません、そうおっしゃったって乗ったに違いない。
乗ったか乗らないかということは、自分の意識でわかることではないからです。私はいま阿弥陀さまの大きな船に乗っていますと自分で意識していたら、ちょっとおかしいです。
自転車に乗ったり、車に乗ったり、新幹線に乗ったりする場合は、乗っていることはわかります。有限なものに乗っているからです。
しかし、地球に乗っていることはわかりませんね。阿弥陀さまの本願力回向の大きな流れに乗っているとわかったら大変なことです。
この世の中で車に乗るのと同じ意味でわたしは確かに今、乗りましたというのはおかしいです。それでは自分の小さなはからいで阿弥陀さまの力を限定することになります。
そういう自力の意識上の思い込みがすっかりとれたところに、本当に乗った姿があるのだと思います。
【浄土の哲学 高僧和讃を読む・上 大峯 顯 本願寺出版社 p158,159より】