手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

「信ずる」といっても

 「しかれば、念仏も申され候ふ。これ自然なり」。助けてもらった人には念仏が自然に出てくる。出そうと思わなくても自然に出てくるのです。如来さまに言わせられるからでしょう。称名念仏は私に呼びかけて下さる如来さまの声のこだまです。こちら側から発源する声じゃないのです。信ずるということも、正確には信ぜしめられるということです。信ずるというと、ついこちらに力があるように思いちがいをしてしまうのです。信ずることだけは凡夫の仕事だというふうに思う人もいます。助けるのは如来さまの仕事だが、信ずるのは凡夫の仕事だというふうに思いこんでいる人がいるかも知れませんが、そういうのは信心ではなく、自力心の変形なのです。
 凡夫の信心の源泉はいったいどこなのかという問題です。親鸞聖人は『高僧和讃』で、「信は願より生ずれば念仏成仏自然なり」とおっしゃっています。信心は自分の心に起こることですけれども、それを凡夫の心に起こさしめる力は何かといったら、それは弥陀の本願力だというのです。どうしても助けずにはおかないと言う如来さまの願力が、私に自然に信心を起こして下さる。それ以外に信心は起こりようがないのです。だから、如来さまを信じてお念仏し往生することほど人間に自然なことはないわけです。
【宗教的回心『歎異抄第十六条 大峯 顕 百華苑 P50,P51より』



「信ずる」というと、「私が信ずる」「自分が信ずる」と受け取られます。
「信ずる」という言葉を使うときは、相手に誤解を生じさせないように気を配らなければなりません。
ここでも述べられていますように、
「信ずる」ということは、「阿弥陀さまに信ぜしめられる」ということです。
確かに、私の側から捉えれば、「私が信じる」「自分が信じる」となりますが、
それはあくまでも、『阿弥陀さまに信ぜしめられる』ということが大前提です。


【ちょっとひとやすみ】
「信ずる」と「信じる」の違いは?
→活用の種類が異なる
「信ずる」はサ行変格活用で、「信じる」は上一段活用です。
現在では上一段活用「信じる」のほうが多く使われる傾向にある。
【YAHOO知恵袋参照】