手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心 (その1)

私の煩悩の眼がさまたげになって見えないけれど、大悲の光はいつでも私を照らしてくださっていると、源信和尚は言われます。
そういうことがどうしてわかるのかというと、これは言わば、わからないままでわかるのです。そうとしか言いようがありません。
私はよくわかったというのは信心ではないように思います。私を仏さまの光が照らしていることがはっきりわかるなどと言うと、ちょっと話がおかしくなってくるのです。
お浄土は虚空のごときものだから凡夫が納得できるような手ごたえはないのです。
お浄土がドンと私に当たってきたら大変です。凡夫の心にそういうふうに当たってくるものはお浄土ではなく、やはり一種の娑婆でありましょう。浄土はふわりとした、いわば空気みたいなものですね。
それでは何もないかというと、そうではない。だから、浄土はわからないでわかるというしかありません。
蓮如上人も、仏法がわかったと言う人は実はわかってない人だ、と非常にうまいことをおっしゃったのです。
【浄土の哲学 高僧和讃を読む・上 大峯 顯 本願寺出版社 p146,147より】