手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

なぜ人命は尊いのか

 

  「一人の生命は地球より重い」と言ったのはときの総理大臣 福田赳夫である。1977年ダッカ日航機ハイジャック事件の際に発した言葉だ。「なぜ、人命は地球より重いのか?」の回答を明確に答えられる人はいるだろうか。「人命は地球より重い」といいながら、紛争は絶えることなく、平気で殺し合いをしている世の中である。本当に、命の重みを感じているのであれば安易な行動は慎む方向に行くであろうに。
  さて、人間と動物の大きな違いは何か、と問われればどう回答するであろうか。私なら言葉を使用するか否か、とこたえる。阿弥陀さまは、『南無阿弥陀仏』という言葉をもってして、私を救うと誓われている。その言葉は、阿弥陀さまと私を結ぶ共通語ともいえる。阿弥陀さまは、そこ(人は言葉を使うこと)に注目され、その言葉(南無阿弥陀仏)に自分(阿弥陀さま)の命を込められた。その阿弥陀さまの命を感じることこそが人として生まれてきた本懐なのであろう。
【勝手に投稿文① 手品師より】

 

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  今回、勝手に投稿文というスタンスで書いてみました。これは、私なりの言い回しであり、話半分、いや話一割で読んで頂けますと気が楽です〜。
この地球上において、唯一、言葉を使って生活している生き物が人間です。その人間でないと仏教ひいては南無阿弥陀仏を聞くことはできません。南無阿弥陀仏を聞く(南無阿弥陀仏のはたらきに気付く)ということは、平たく言いますと、「永遠の命」を授かるということです。このような視点から考察してみますと、人命は地球より重い、という説明がつくのではないか、と考えています。人として生まれ、いま現在生きていることについて、お釈迦さまは、「人身(にんじん)受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生(こんじょう)において度せずんば、さらにいずれの生(しょう)においてかこの身を度せん(三帰依文)」と喝破されています。チャンスは「このいま」ということが読みとれます。みなさん、このお釈迦さまの言葉を聞いて焦りませんか? 本当に大丈夫でしょうか? いま死んでも・・・。
  南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた人は、寿命尽きれば南無阿弥陀仏のはたらきの一員とならせて頂きます。そのときには、五劫思惟の構想や兆載永劫の修行の詳細についても分からせて頂けるのでしょう。ですので、いまは、その時まで自分なりにあれこれ考えて楽しんでいます。手品師の妄想と言ってよいでしょう(笑)。ただ、今後の私の行く末は分かっていますので、日々楽しくやらせてもらっています。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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景色が違う

 

 ジョギングが日課となっています。いつも、田んぼのあぜ道を左回りに走っていますが、たまに、右回りに走るときがあります。全く同じコースではありますが、景色が全然違います。視点が変わると別世界になります。発想の転換といいますか、柔軟に物事を考えていくことはとても大事なことだと思います。今まで気付かなかったことに気付かされる機会が多くなります。
 ジョギングをしながら、「とんぼ安心(藤原正遠)」という話を思い出しました。私の好きな話です。以前にも当ブログで何回か紹介しましたが、あらためて紹介します。

『先生はこうおっしゃいましたね。とんぼがガラス戸に頭をぶっつけて外に出よう出ようとするが、とんぼの頭ではガラス戸を破ることが出来ない。とうとう、とんぼは力尽きて死んでしまう。一生懸命に頭をぶっつけている時に後ろから阿弥陀さまが呼んで下さる。後ろに広い世界があるよ。向きを変えなさい。とんぼは言う。私には後ろの世界が分かりませぬ。向きを変えることも出来ません。阿弥陀さまは仰せになる。それなら私の名前を南無阿弥陀仏と呼びなさい、呼べば必ず向きが変えられる。とんぼは仰せのままにお念仏をしたら不思議に向きが変えられて、こんな広大無辺の世界のあることが知らされた。』

 

f:id:tarou310:20191130135525j:plain撮影:令和元年11月30日(土)  ジョギングコース(新幹線はやぶさが仙台方面へ)

 

 

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とび込んで来て下さる阿弥陀さま

 

火事と自ら気付いて逃げ出す人もあり 。火事と知らされて 、逃げ出す人もある 。火事だと呼ばれても 、火の付いた家に気付かず 、寝ている赤子もいる 。平気で寝ている赤子を 、抱きかかえて逃げ出すよりほかには助かる道はない 。吾々は何と云われても火の付いた世界 、火宅無常の世界と聞かされても 、それを本当に気付かない 。平気で暮らしているこの私に 、阿弥陀さんが私にとび込んで来て下され 、私を抱きかかえて下さる 、其の御姿が 、今現にこの口に聞こえてくださる 。南無阿弥陀仏

【松並松五郎念佛語録 響流選書 より】

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「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」(原口針水)という詩と重なります。南無阿弥陀仏には、はたらきがあります。単なる6文字でありません。阿弥陀さまの五劫の思惟と兆載永劫という修行から生まれた願行具足の南無阿弥陀仏なのです。阿弥陀さまのいのちが込められているといってよいでしょう。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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お念仏

酒に三段階あり 。初めは 、私が酒を呑む 。次に 、酒が酒を呑む 。遂に 、酒が人を動かす 。泣く人 、口論する人 、笑う人 、けんかする人 。お念仏も 、初めは私がする 。だんだん 、お念仏様がお念仏を呼ぶ 。遂にお念仏様が全身を動かす 。南無阿弥陀仏

【松並松五郎念佛語録 響流選書 より】

 

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 モノマネをしていくうちにホンマモノになります。すべて、阿弥陀さまのお計らいなのでした。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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自分大好き人間

 

自分中心のひと(1)

鬼のような形相で、聴聞しているような人は、自分の土俵に、阿弥陀さんをもってこようとしているのでしょう。

思いっきり自力ですね。

 

 自分中心のひと(2)

助けるよ、という阿弥陀さま

助かりたい、という私

お互いの思いは合致しているようですが、そうではありません。本願力回向の教え(阿弥陀さま私)からいいますとどうも噛み合いません。そこに、私の自信がみて取れます。助かりたい、という思いが強いひとほど、空回りしているようですが、見方を変えますと、思いっきり阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のはたらきが、はたらいている姿ともいえましょう。

 

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誤用が定着(他力本願) ※投稿文

 

仏教からでた「他力本願」という言葉。辞書には「人まかせ」という意味でも明記されている。そのことを裏付けるように、日常生活において「人まかせ」という意味で使われているケースが散見される。誤用が定着すると、本家本元の意味をも越えてしまうのだろうか。誤用がここまで定着してしまうと、さすがに御用とはいかないようだ。なんか悲しい。

 

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如来が作られた言葉

    最近、とりわけ、「言葉に拘り」をもってあれこれ考えている私です。この地球上で、言葉を使って生活しているのは人間だけです。そこに注目すると、やはり、人として生まれ、生きていることに深い意味を感じます。
   『南無阿弥陀仏は、如来が作られた言葉』といわれた大峯顕 師の言葉に共感します。また、大峯師が生前強調して話されていた「言葉が語る」という言い回しはとても印象に残っていますし、実感しています。言葉は単なる記号なんかではありません。(言葉には)はたらきがあります。日常生活を営む上で、その(言葉の)はたらきの感受性を養うことはとても大事なことではないでしょうか。読書でいえば、「行間を読む」ということでしょうか。
   南無阿弥陀仏も然り。「南無阿弥陀仏」は単なる6文字ではありません。はたらきがあります。そのはたらきに気付かされることはこの上ないよろこびであります。人として生まれてきて本当によかった、と実感できるのでした。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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『南無阿弥陀仏は、如来が作られた言葉』 大峯 顕miko415.hatenablog.com