手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信によって免疫性をもった人

  信はまた苦悩の免疫性を私どもに与えるものであります。人間であるかぎり、絶対に苦悩が無くなるということはあり得ないことです。どうしても生きているかぎり苦悩はありますが、免疫性のある人のようなものであります。
  肺病の病原体というものがあるそうです。少しもばい菌がおらない健康体というものは、いかに健康体であっても、かえって危険なのでありまして、もしも一旦、ばい菌が少しでも入ると病勢がにわかに奔馬的に進行して、短日月に死んでしまうそうであります。それゆえに保菌体といってばい菌が体内に有りながら、抵抗素ができておる方が、無菌体の人よりもかえって安全であって、そういう人こそ本当の健康者であるということであります。それが心配のない理想的な健康者であって、かえって心配もなく不安もないそうであります。人として生活苦の無い者はないのですが、有ってしかも無い人というのが、即ち保菌者と同じように、信によって免疫性をもった人であります。
【苦の探求 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ) 法蔵館 P58より】

 

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(浄土真宗でいう)信(心)によって免疫性をもった人、
つまり、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひと」は、根底に大安心があります。ですので、日常生活で、つらいこと、悲しいこと、寂しいことに遭遇しましても、うまく対応できるといいますか、発想の転換ができます。人としての命が終わるときまで。そしてその先は、南無阿弥陀仏の仲間入りです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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ありのままの世界

 西田は 、 「実在 」とは 「現実そのままのものでなければならない 」といいました 。これは 「ありのまま 」といい換えてもよいかもしれません 。 「実在 」を感じるには 、世界をありのままに感じなければならない 、と西田は繰り返し語っています 。
 しかし 、この 「ありのままの世界 」を感じることが簡単ではありません 。私たちがそれをさまざまなもので覆い 、見えなくしてしまっているのです 。 「ありのまま 」を覆うものが剝がれ落ちたとき 、 「実在 」がその姿を顕わします 。西田がある時期 、禅に打ち込んだことは先に見ました 。禅とは 、結局 、この 「ありのままの世界 」を全身で認識することにほかなりません 。
気がつかないうちに 「実在 」を覆ってしまっているもの 、それが私たちの価値観や世界観です 。
 たとえば 、現代人にとっては 、実証可能な科学的世界観が常識になっています 。しかし 、人生の大きな試練に直面するとき 、この科学的世界観とは異なる世界を感じることがあります 。
科学は 、再現可能であることを真実であるとみなします 。しかし 、人生は二度と繰り返すことのないもので満ちています 。今日という日は 、二度とないことを私たちはよく知っているのです 。
 このことについて、別の側面から考えてみます。世の中には無数の「色」があります。
私たちはそれを多くの場合、それぞれの母語を通じて理解します。
 しかし、日本語の「あか」と英語の“red”は同じではありません。「あお」と“blue”は同じではありません。日本語には「赤」「朱」「赫」というようにさまざまな「あか」があり、「青」「蒼」「碧」のように複数の「あお」があります。
「あお」を実在的に経験するとは、さまざまな「あお」を感じ分けるということではありません。それは科学的な情報に基づく「解析」です。
 たとえば「あお」という多面体があるとします。西田のいう「実在」の経験とは、この多面体の一つひとつの面に「ついて」知ることではありません。多面体そのもの「を」認識することです。「あお」そのものにふれ、「あお」を色たらしめている「色そのもの」のはたらき、根源のはたらきを感じることです。
 この「色そのもの」が、西田のいう「実在」です。「あか」「あお」「きいろ」「くろ」「しろ」はどれも「色」です。しかし、私たちがこれらの色を科学的に「解析」するとき、それぞれの色の特性について知ることはできますが、私たちが「色そのもの」を知ることはできません。

【NHK 100分 de 名著 西田幾太郎 「善の研究」2019年10月テキストより】

 

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後半部分(青字部分)は、「南無阿弥陀のはたらき」を意識しているようにしか思えません。南無阿弥陀仏には、はたらきがあります。深いです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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「南無阿弥陀仏」という灯火(ともしび)

私たちは 「生けるもの 」を生きた存在として感じるとき 、内なる愛をもってそれに接する 。だが 、愛が失われた目で世界を見るとき 、「生けるもの 」は生命なきもの 、すなわち 「止まっているもの 」であるかのように映る 、というのです 。このことは 、「言葉 」を対象にしたとき 、もっとも顕著に感じられるのではないでしょうか 。あるとき 、文字は単なる記号に過ぎません 。しかし 、そこに 「いのち 」を感じるとき 、それは私たちの心に火を灯すものにもなるのです 。
【NHK 100分 de 名著 西田幾太郎 「善の研究」2019年10月テキストより】

 

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「南無阿弥陀仏」という言葉を単なる記号やお呪いと捉えるか、阿弥陀さまのはたらきと受けとるかでは雲泥の差です。
この文章の後半部分を借りていいますと、
「南無阿弥陀仏」という言葉に、(私が)いのちの温もりを感じるとき、(私の)心に火が灯ります。その灯火は永遠に消えることはありません。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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大峯 顕 先生のこと(浄土真宗僧侶、哲学者、俳人)

 

以前にも、このブログで、大峯 顕 先生のことを紹介しましたが、あらためて。

 

 「言葉は語る」という表現を用いたのは、大峯 顕 先生です。※あるいは「言葉が語る」。先生とは、六角会館(京都市)、願教寺(盛岡市)の2回、計3回、直接お会いする機会がありました。とてもお洒落で気さくな先生でした。また、ユーモアたっぷりのお話しは今でも印象に残っています。

  先生の存在は、ある一冊の本との出合いで知ることに。書店で、たまたま手にとった(先生の)書籍がきっかけとなりました。哲学者、俳人でもあった先生の言葉は、心に響きます。先生独特の詩的表現は誰もマネができないでしょう。

  いずれ、私も、先生と一緒に南無阿弥陀仏のはたらきとなって活動させて頂けると思うと今からワクワクしています。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

読売新聞 ひろば(青森版)に(私の)投稿が掲載されました。大峯 顕 先生にも触れています。下記、リンクからどうぞ〜。

btejina.hatenadiary.com

 

tarou310.hatenablog.com

 

f:id:tarou310:20191018204327j:plain俳人インタビュー 大峯あきら より

衆生済度できる楽しみ

ただ自力をすてて、いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道(ろくどう)・四生(ししょう)のあひだ、いずれの業苦(ごっく)にしづめりとも、神通方便(じんずうほうべん)をもつて、まづ有縁(うえん)を度すべきなりと云々。(歎異抄第五条より)

と言われているのです。“自力を棄てて、私のはからいを離れて、如来さまのお救いをいただき、そして如来さまに救われて浄土に往生し、速やかにさとりを開かせていただくことができるならば、今度は、今、阿弥陀さまがそうなさっているのと同じように、「六道・四生」の地獄の底に沈んでいようと、餓鬼道に沈んでいようと、畜生道にいようと、どこにいようと、自在にそういう人々を救うことのできる力が与えられている”と言われます。
  そういう力がないならば、ただ願っただけでは駄目です。いくら願っても力がなければ人を救うことはできません。今度お浄土に往けばその力をつけていただく。お浄土は遊びに行くところではありません。一切の衆生を救済するためにお浄土に往くのです。それが往生浄土ということなのです。
  ですから、自力を棄てて、浄土に往生させていただくならば、速やかにさとりを開いて、そして「六道・四生」、四生とは胎卵湿化(たいらんしっけ)といって迷いの境界(きょうがい)の生まれ方を四種類に分けておられるのです。要するに地獄の底から天上界に至るまでどこにいようと、「いづれの業苦にしづめりとも」、どんな苦しみの中にいようと、今度は「神通方便をもつて」、神通力をもって、生きとし生けるすべてのものを、巧みな方法で手段を設けて救済することができるものにしていただくのです。
 つまり、如来さまに救われて浄土往生できるならば、衆生済度の身にならせていただけるのです。衆生済度することができる身になれば、当然、深い縁につながれた今生の父や母、兄弟、夫婦の近親のものたちを真っ先に救ってゆこうとするのは当然です。それで「まづ有縁を度すべきなり」と仰せられたというのです。
【梯 實圓和上講和集『歎異抄』師訓篇を読む2 自照社出版 P126,P127より】

 

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南無阿弥陀仏のひと(南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされたひと)は、人生終われば、浄土でさとりを開いて、またすぐこの世界に戻り、神通力をもってして、生きとし生けるものの救済活動にはいります。その仲間入りにさせていただけることはこの上なくうれしいことです。まずは、有縁のかたの救済です。どういうカラクリになっているか現段階では知る術はありませんが、そのうちそのことも分からせてもらえます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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わたしは何者?!(その2)

   グロバリゼーションやらITについて、世の中賑々しいですね。世界的に、いろいろと猛烈な勢いで動いているようです。でも結局、人類全体としてこれらの事柄を、何のために何をしているのか、みんな全然自覚していないと思う。掛け声は勇ましいんですけれども、自分が何をしたいのかということは、まるっきり自覚していない。
                 (略)
  IT革命で、バラ色の未来みたいなことが言われてますが、一方で無意味な少年犯罪や殺人が確実に増えている。このギャップはいよいよ広がる一方じゃないですか。バラ色の未来と無意味な人殺し、この両方が同時に存在することが、近未来の社会です。それをどうにかしたいと思うなら、精神の原点に返るしかない。
 そのためには、ひとりひとりが考えるしかないでしょう。精神というのは自分がそこに存在して、なにゆえに生きているのかを考えるためのものです。ひとりひとりが自分で考えて、それを知る以外にないのです。
  一番わかりやすいのは、自分が死ぬということを考えること。明日は必ず死ぬという状況になってみれば「自分の人生とはなんぞや」と、少しは考えるかもしれない。ある死刑囚は、私の著書で目覚めたけれども、逆から言えば、そうならないと、人は気がつかないともいえる。私はもう考えることが宿命みたいなものですが、どなたでも生きて死ぬ限り、同じ問いは何かのきっかけで必ずもつはずです。
【私とは  「私とは誰か」から考えよう 池田晶子 講談社 P220~P222より抜粋】 

 

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「私とは何者?」という問いは、人として生きている上でとても大切なことだと思います。そういう問いがでてくるのは、「私は死ぬ」という厳粛な現実が背景にあるからなのでしょう。
今一度、「いま、私が生きている意味」をじっくりと考えてみたいものです。

 

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