手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

執着心の打破(広い視点で物事をみる)

    ウィトゲンシュタインに最も近かった弟子の一人マルカムは、その著『ウィトゲンシュタイン――ある回想』(原文51ページ)において、次のように言っています。
 或る日、我々〔ウィトゲンシュタインとマルカム〕が一緒にいたとき、彼は哲学についてハッとするような所見を述べた。彼は次のように言ったのである。
 「哲学的混乱に陥っている人は、或る部屋の中に居てそこから脱出しようとしているが、しかしどうしていいか解らないでいる人、に似ている。彼は窓から脱出しようとするが、窓は高すぎる。彼は煙突から脱出しようとするが、それは細すぎる。しかし、もし彼が振り向きさえすれば、ドアはずっと開け放されていたのだ、という事に気づくであろう!」
【黒崎 宏『ウィトゲンシュタインと禅』哲学書房、1987年、17‐19ページ(21世紀の浄土真宗を考える会)より】

以下、あほうどりさん(21世紀の浄土真宗を考える会)のコメントです。
ウィトゲンシュタインが言ったことは「哲学的混乱」に限ったことではないと思いますね。いろいろな事象に当てはまるのではないでしょうか。

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   ここで、「いろいろな事象に当てはまるのではないでしょうか」とありますが、「南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされる」ということを意識したコメントのように受け取れます。また、この文章を読んでいましたら、「とんぼ安心(藤原正遠)」という話を思い出しました。重なるところがあります。
以下、紹介します。
  『先生はこうおっしゃいましたね。とんぼがガラス戸に頭をぶっつけて外に出よう出ようとするが、とんぼの頭ではガラス戸を破ることが出来ない。とうとう、とんぼは力尽きて死んでしまう。一生懸命に頭をぶっつけている時に後ろから阿弥陀さまが呼んで下さる。後ろに広い世界があるよ。向きを変えなさい。とんぼは言う。私には後ろの世界が分かりませぬ。向きを変えることも出来ません。阿弥陀さまは仰せになる。それなら私の名前を南無阿弥陀仏と呼びなさい、呼べば必ず向きが変えられる。とんぼは仰せのままにお念仏をしたら不思議に向きが変えられて、こんな広大無辺の世界のあることが知らされた。』

   物事を敷衍してみることは非常に大事なことではないでしょうか。自分の狭い了見では捉えられないことが知らされるものです。すでに存在しているものにおいては「気付かされる」とか「知らされる」という表現が自然です。南無阿弥陀仏のはたらきも然り。すでに届いているものにおいては、「気付かされる」とか「知らされる」という表現がしっくりします。

     最後に、タイトルを「執着心の打破」と強気にしましたが、打破なんて到底できるはずがありません(笑)。ちょっと一歩引きまして自分自身を冷静にみつめることが大事だということです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

 

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