まだ寒中であるにもかかわらず、木々の芽が大分ふくらんできたようである。この芽のうちに、大自然の働きの一切が集中せられてあることが思われる。
大空を仰いで見ると、太陽はいつものように輝いている。大地はいつものようにしめっている。ほがらかな日である。ふとお念仏がでる。
み仏のみ名をとなふるわが声は
わが声ながら たふとかりけり
と詠うている叔母(和里子)の歌が思い浮かばれる。そして、げに歌の如くであると、自分でうなずくものがある。自分でそううなずくことには、そううなずかせるものがあるはずである。それは何であろう。直接は叔母のうたう歌のようであるが、その奥に、もっとそう思わせるものがある。
思うことは思わせらるることである。「わが声ながらたふとかりけり」と思うことが、そう思わせらるる光明なのであるまいか。氷のように凍りきった自分の心の中からお念仏がでて、それが「たふとかりけり」と思えることが、この寒中に木々の芽が大自然の力により、ふくらんでいるようなものではなかろうか。
【親鸞に出遇った人々3 足利浄圓 同朋舎 P155、P156より】
「ふとお念仏がでる」
⇒自然に念仏がでる、これまたいいですね~
「自分でうなずくものがある。自分でそううなずくことには、そううなずかせるものがあるはずである。それは何であろう」
⇒それは、「南無阿弥陀仏のはたらき」ですね。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏