国際報道に限りませんが、現場に記者が行っているかどうかは、情報の厚みという意味では決定的な違いを生みます。テレビの現場中継を見ていると、現場を見ているのと同じだという感覚に陥りがちですが、それはカメラで切り取られた「二次情報」に過ぎません。現場に立ってみると、実際の「空気」や状況は全く違っていた、というケースは少なくないのです。
どんな記者でも、先輩から飽きるほど聞かされている言葉があります。「必ず現場に行け」です。たとえ自分がすでに行ったことがある場所、そこで何が起きたかを知識として知っている場合でも、現場に足を運べという意味です。
時代錯誤の精神論に聞こえるという人もいるかもしれません。グーグルを使えば、世界中の街並みを見ることができます。ネットを検索すれば、大抵の物事について解説を見つけることができます。ユーチューブには、テレビでも見られない映像があふれています。
確かに現代は、実際に現場に行かなくても「見る」ことが可能な時代です。「なぜわかりきったことを確認するためだけに現場に行くのか」と思う人も少なくないでしょう。その訳は、現場に立って初めて見えてくることが無数にあるからです。どんなにネットが情報を提供しようが、実は「わかり切って」などいないのです。
【新聞の正しい読み方 松林 薫 NTT出版 P184、P 185より】
ここでは、報道において、「現場の重要性」について書かれています。スクリーン越しにモノをみる(客観的にモノ見る)。自分の目で、直にモノをみる(直接、モノを見る)。「見る」という点では同じですが、リアルか否か、の違いは月とスッポンです。
では、南無阿弥陀仏についてはいかがでしょうか。
先の言葉(現場の重要性)を借りるならば、現場主義たれ、というところでしょうか。自分の冴えない頭で、どんなに、思ったり、考えたり、想像したところでなんの意味もありません。阿弥陀さまと同じ土俵に立って、阿弥陀さまと直(じか)に向き合いたいものです。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏