手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

未来予想

「要するに」仏とは此んなものであろう、
「要するに」信心とは此んなものであろう、
「要するに」信心を得たら、此んな心になるのであろう、
と考えます。そしてその様になろう、それを得ようとします。これは私は予想信(よそうしん)と名づけます。予想信は駄目です。予想信とは、きっと此んなものであろうということです。あろうということは信ではありません。「要するに」と考えることは、撤廃すべきであります。要するにと先決して考えずとも、正しく聞き、正しく考え、正しく進んでゆくならば、要するには、考えなくとも自然に出ることであります。辿るべきを辿らずして「要するに」を急いでおる人は、何時までも、要するに、分からないのであります。
 仏とは此んなものであろうと、予想することは、よくないことであります。予想しておいて、その予想と合致しようとするのであります。それこそ自力的努力であります。たといああ分かった、ああそうかと一時は喜んでみても、それは自分の予想と一致した事の喜びであるから、自力で造ったものの、やがて壊れるのは当然であります。
【聞法の用意 蜂屋 賢喜代(はちや よしきよ) 法蔵館 P120,P121より】



阿弥陀さまを語る上で、
「要するに 〜であろう」という自分本位の想像にまかせることは曲者です。
自分の頭でどれだけ捏ね繰り回しても何の解決にもなりません。
肝心の阿弥陀さまは何処へ?! ですね。
かつてのわたしもそんな時期がありました。「あ〜だ こ〜だ」と私の好きなように阿弥陀さまを解釈していました。自分本位のなにものでもありませんでした。
勿論、いまも自分中心の自分大好き人間ですが、阿弥陀さまにまかせきっている点で、その頃とは根本的なところは違います。阿弥陀さまにまかせきらされた、というのが本当のところですね。ほんまもんは、『南無阿弥陀仏』です。それに尽きます。
おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏