手品師(浄土真宗の教えについて)

「浄土真宗の信心について」を中心に綴ります

信心の利益

   ある日、庄松さんが富田村の菊蔵さんとふたり連れだって三本松の勝覚寺さんにお詣りをした。すると庄松さんは本堂にあがるなり、「ああ疲れた疲れた」といって、仏様にお礼もせずに、畳の上に寝ころんだ。それを見た菊蔵さんが「これこれ庄松さん、何ということかいなお仏前に寝ころんで、ご無礼なことを・・・」ととがめると、庄松さんはにこにこして「何をいう親の家じゃ、遠慮にはおよばん」と。それでも菊蔵さんは「そういっても御仏前に・・・」というと庄松さんが「そういうおまえは義子(義理の息子)であろう」といわれたそうです。
   庄松の「親の家じゃ、遠慮にはおよばん」という受け止めは、冠頭讃の「憶念の心つねにして」という思いと相通じます。すなわち信心が具われば、親のことをいつもいつも思っているわけではありませんが、しかし親に支えられているという安心感と同じように、阿弥陀如来によって、大きな力によって支えられているという思いがいつまでも続いていく、そういう心情が信心の利益として語られているといってよいでしょう。

【妙好人のことば-信心とその利益-  白川晴顕   本願寺出版社  P94、P95より】

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南無阿弥陀仏のはたらきに気付かされた安心感は、私が忘れていようとも親さまである阿弥陀さまは片時も私のことを忘れないというところからくるのですね。有難いことです。私はといいますと報恩感謝のお念仏をただ称えるだけです。

おかげさまで 今日も 南無阿弥陀仏

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